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2013年5月11日 (土)

争乱の戦国史11(室町Ⅱ01): 上杉禅秀の乱

 今回より、前回までの戦国期の予兆から、愈々「戦国時代」に入ります。区分「室町Ⅱ」の表示「戦国時代第Ⅰ期:初期」即ち戦国時代の始まりの頃とご理解ください。

 戦国時代は東国の動乱から始まったとする説がある。本シリーズもこれを採る。北山文化といわれる金閣寺に代表されるきらびやかな室町文化を花開かせた3代将軍・足利義満の頃、足利幕府は全盛期を迎えた。そして義満1408年(応永15)5月没し、子の義時が4代将軍を後嗣後も、弟・義嗣とも良好な関係が保たれ、数年は平穏な日々が続いた。ところが、関東では上杉禅秀の乱勃発する。
 関東は鎌倉幕府があった地で、室町幕府も重視し、関東・東国統治のため、鎌倉府を置き将軍家一族より関東公方を出し、その下に関東管領を置いていた。

 1409年(応永16)、その関東公方・足利満兼が没し、12歳の嫡子足利持氏が関東公方を継いだ。しかし、1416年10月、前関東管領上杉犬懸禅秀(俗名・氏憲)が持氏の叔父・満隆、及び持氏の弟(満隆の養子)持仲らと組んで持氏を襲った
 この前年、禅秀は家人・越幡(オバタ)六郎の所領没収に抗議し、関東管領を辞任し、後任には禅秀の上杉犬懸と対立する上杉山内の憲基(ノリモト)が就任していた。
 禅秀はその後、かねてからの関東公方の地位に執心して持氏と対立していた満隆・持仲らと急接近していったのだ。(前掲足利氏/上杉氏系図参照)
F112  持氏より援軍を求められた4代将軍・義持は叔父・足利満詮の意見で持氏支援を決めた。が、その直後義持の弟・義嗣が出奔、京都北西の高雄に潜んでいたのが発見された。幕府は義嗣が上杉禅秀らと義持打倒を企てたと断じた。義嗣は幽閉され、付き従った者たちの拷問が決まった。しかし、管領・細川満元は内通者として大名4、5名が挙がっては一大事として反対。また前管領・畠山満家は事件拡大を恐れ、義嗣の野心明白故、直ちに切腹をと主張した。この恐れが現実となり、内通者として、斯波義教、細川満元、赤松義則らが名指しされた。禅秀の乱は1417年正月(応永26)、満隆、持仲、禅秀らが鎌倉雪ノ下で自刃して終結したが、義嗣一党に対する追及はその後も秘かに続けられ、翌1418年正月(応永27)、処刑された。(は禅秀の乱敵味方供養塔:応永25年、魂供養のため清浄光寺に建立された石塔
 この事件は義持の政権基盤を確立するためのでっち上げ説があるが、地方での同族の相克に将軍家が介入するこの争乱が、戦国時代への幕開けとなった。 

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