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2013年4月

2013年4月30日 (火)

好天気に恵まれそうな五月連休

 先ずは最初の3連休。好天気に恵まれ、且つ気温も上昇。今年は、高、近、短即ち高くても、近場で、短期間の過ごし方とか。福岡では大型商業施設などに人気が集中。高速道はどこも長蛇の列だったようだ。5月の博多ドンタクを控えこれから更に祭り気分が盛り上がる。
Photo  ナンジャモンンジャノキ。正式名はヒトツバタゴ。タゴ(トネリコ:複葉)に似ているがこれは単葉ゆえの名。学名Chionanthus のchion は雪、anthus が花で、雪のかたまりの意の名前にしては変な名がついている。「こりゃなんじゃ」から付いた名前の由。日本では対馬、岐阜、愛知にしか無かった木だが、今は他へも広がったという。
Photo_2  ハクチョウゲ(白丁花)。東南アジア原産。これは紫がかった花で、ムラサキハクチョウゲが正式名。丁子という木の花に似ている故の名。芽吹きが強く、細かい枝葉を密生するので、江戸時代から生垣、植込みに使われている。花は1cm足らずの可愛い花を沢山つけて、綺麗である。
Photo_3  ハゴロモジャスミン(羽衣素馨)。中国南部原産。元々観葉植物で、害虫、病気に強く、花も綺麗なので、塀などに這わせている家が多い。名前の通り、ジャスミンの仲間で香りがいい。唯、よく伸びるので、花後はバッサリ切落とす必要があるとか。

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2013年4月29日 (月)

争乱の戦国史8 (室町Ⅰ02): 明徳の乱

 12ヶ国の守護職となった山名時氏の嫡子・師義は時氏の死後5年、1376年(永和2)に没した。師義の子が若いので弟・時義が中継ぎ惣領となり、次期惣領に師義次男・氏之を指名した(嫡男・義幸は病弱)。この措置を不満としたのは、義幸の代官を務めてきた氏之の弟・満幸だ。こうして山名時義・時熙父子と対立した氏清・満幸は将軍義満の走狗として動いた。
 この疑心暗鬼状況で、氏清は時煕を、満幸は氏之を攻めた。そして満は時煕と氏之を赦免し、逆に満幸は後円融上皇所領の出雲の荘押領のかどで京を追われた。ここに官軍だった満幸と氏清は逆賊と化し、明徳の乱に至る

 婿・満幸の執拗な勧誘に屈した山名氏清1391年(明徳2)12月、分国和泉から八幡迄軍を進め、満幸も丹後に出て丹波に入った。又山名氏家も家臣に引きずられ京を出奔し、氏清軍に合流。一方幕府方は合戦評定で義満の一言で合戦に決し、京都内野に陣を張った。30日早朝、氏清の弟・山名義数等の軍と幕府方大内義弘勢合戦の火ぶたが切られ、4時間の激戦で、義数は討ち死。入れ替え勢の赤松義則が大内と交替して、山名氏家の軍勢を迎え撃った。
8  その頃、丹波から京に入った山名満幸細川・畠山・京極勢との間で戦闘、将軍・義満は馬回り勢にも出陣させ満幸勢を京都西郊梅津へ追った。
 結局、山名氏清は、赤松の入替勢・一色詮範(アキノリ)・満範親子首級を上げられた。戦死者は山名方879名に対し、幕府方も160以上に上った。
 翌年、評定により、旧山名分国が諸大名に配分され、山名時煕が但馬氏之が伯耆を夫々回復し、氏清方に付いた氏家は本領因幡を安堵されたものの、他の8ヶ国は全て他家の手に移り、山名勢力削減という義満の目的は達せられた。(は明徳の乱による山名氏の領地の変動

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2013年4月28日 (日)

行く春から万緑へ

 今の時候を、季語では「行く春」(暮の春、暮春とも)という。もう春も終わったかと惜春の情を感じる季語だ。が、昨日から中3日の平日も含め、10日間のゴールデンウイーク。今年は対中国問題、インフルエンザなどで海外旅行は減ったようだが、福岡は韓国辺りからの円安日本への買物ツアーが増えているとか。これからは「万緑」の季節。花も負けじと咲き誇る。
Photo  シラー・ペルビアナ(Scilla peruviana)。別名オオツルボ(大蔓穂)。地下茎が有毒で語源も skyllo(有毒)らしい。この原種は地中海沿岸で、古くから渡来。日本には野生のツルボがある。但し花の形状も違って、雑草然としている由。園芸種の花色は各種ある。これは草叢に放置のもの。
Photo_2  ナルコユリ(鳴子百)。別名ナルコランは葉腋から筒状花が垂れ下っているので、上から見ると気付かない。山地や丘陵などの藪陰に自生。尚よく似ているアマドコロがあるが、これは茎にひっかかりがあるが、ナルコユリにはないという。民家の花壇にあったもの。
Photo_3  ヘラオオバコ(箆大葉子)。ヨーロッパ原産で、江戸末期に侵入した帰化植物。細長へら状の葉が地上に放射状にでており、花茎がひょろ長く(2,30cm)伸び、先端にこのを付けている。穂には下から順次小さな花がつき、白く目立っているのは雄しべ。今年は草叢に群生している

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2013年4月26日 (金)

消費増税対応に苦悩の流通業界

 「消費税還元セール」などと銘打った安売りを禁止するための法案「消費税転嫁法案」が、今国会で審議中である。売り上げ減を恐れる大手小売りが中小納入業者に増税分の値引きを迫るのを防ぐ狙いの法案だ。野党にも異論はないが、「セールには消費喚起の面もあり、規制は景気回復を遅らせる。国を挙げての安売り禁止はおかしい」とスーパーなど大手小売りは猛反発。イオン、ユニクロなども増税を転嫁して、生活防衛に必死の消費者が受け入れる筈がないと政府対応に疑問を呈し、増税後の価格据え置きも検討中という。結果、納入業者へ皺寄せされるのも問題だ。アベノミクスで、今後の物価動向や一般庶民の台所事情がどう変化するか、それ如何により、政権も信を問われかねない。今日も初夏の花
Photo  ギンバイカ(銀梅花、銀盆花)。地中海沿岸の原産。毛の様に見えるのは雄しべで、花が梅に似ている故の名前。葉は揉むとユーカリに似た芳香を出すのでハーブとして使われ、結婚式にも使われるので「イワイノキ(祝いの木)」とも言われる。実は食べられる。これは博多駅の屋上の庭園にあったもの。
Photo_2  イチハツ(一初)。アヤメ属でアヤメに似ているが、花径が10cm以上ある大きな花をつける。中国原産で室町時代には渡来していた由。アヤメ類の中で一番初めに咲く故、一初というものの、実際はシャガより遅い。昔、茅葺屋根の上に植え、火災、大風、魔除けにしたという。写真は我が庭に咲いているもの

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2013年4月25日 (木)

争乱の戦国史7(室町Ⅰ01):守護の領主化・世襲化

 タイトルに(室町Ⅰ01)と表記したのは、室町時代の「戦国時代の萌芽期」を戦国期第Ⅰ期として、その第一回目の意です。凡その時代表示のため、この方式を毎回用いますので、ご了解しておいてください。
F7  草創期の室町幕府は、守護を上古の吏務(国司)としており、南北朝期には概ね維持されたが、南北朝動乱が終息を迎える14世紀末~15世紀初頭には、守護の所領感が台頭し、守護職の世襲化、所領化が急速に進行し、領主化してゆく。
 これは、将軍が有力守護に屈した部分があるが、義満自身が守護職補任状「相伝に任せて補任する所なり」の文言を使用し始めたときから、守護職の領主的部が強まり始めた転換期であった。
 これを山名氏の場合に見ると、上野国山名郷を名字の地とする武士で、早くから足利氏に属し鎌倉倒幕、南朝掃討に活躍した。だが、足利直義(尊氏の弟)の死後、幕府に叛旗を翻し1353年、55年南軍として入京
 山名時氏、師義親子が執事(管領)・斯波義将の懐柔により1363年(貞治2)幕府に帰参。この時、周防の大内広世幕府に帰参し、北朝の勝利が確定した。但し、帰参の条件として彼らの支配領域をそのまま追認するよう義詮(2代将軍)に求め、結果、大内氏は周防・長門の二か国の、山名氏は因幡、伯耆、丹波、丹後、美作五ヶ国の守護職を安堵されたのである。
 従って、これを如何に吐き出させるかが3代将軍の課題となった。山名親子は更に隠岐、但馬の守護職を手に入れ師義の弟・義理(ヨシマサ)に与えられた紀伊、氏清に与えられた和泉、山城、時義に与えられた備後、師義の子・義幸に与えられた出雲を加えると、山名一族だけで12ヶ国、全国の6分の一に当るのである。勿論夫々個々の所有もあり全部が山名一族の分国ではない。唯、因幡、伯耆、丹波丹後、美昨、隠岐、但馬7ヶ国の守護職は実質的に山名一族の世襲所領と化していた。但し、義満が与えた畿内守護職の多くが総領ではなく、弟の義理や氏清であったため、兄弟間の同族連盟や同属報告の争乱などの一因ともなってゆく

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2013年4月24日 (水)

漸く春に戻って

 昨夜からの雨が続いているが、午後から上がり、今週は気温が少しづつ上昇の予報だ。折角の花が、雨に打たれて傷んでいるのはなんだか可哀相な気がする。それでも元気に咲いている花もある。
Photo  アジュガ(Ajuga reptans)。アジュガの中で、日本原産のジュウニヒトエ(十二単)は学名Ajuga nipponesis という。アジヤの温・熱帯に40種分布。日本にも8種が自生している由。この花は茎が伸びず、葉は地面に広がり、見た目花だけの植物のように見える。この写真の花は園芸種だろうが、雑草の中に放置されて咲いていたもの。
Photo_2  ガザニア(Gazania rigens)。別名クンショウギク(勲章菊)。園芸種が沢山で来ており、花の形や色の違うものが多く出回っている。アフリカ原産で、日本には明治末期に渡来したという。写真の花はブロックの石垣からはみ出したまま放置されていたもの。
Photo_3  シャクナゲ(石南花、石楠花)。昔は矢張り山に入らぬと見れぬ花だったが、今は園芸種が出回り、写真の様に、玄関先の花壇に植えられている。石南花(シャクナンゲ)が転じて、シャクナゲになったという説と、背が低いので、尺なしからシャクナゲとなった2説がある。ネパールの国花だ。

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2013年4月22日 (月)

寒さも緩んで春らしく

 中国は四川省の大地震で大変な最中、今度は鳥インフルエンザの感染が広まり始めたという。今日現在で感染者は100名に昇り、2名の死者が出たという。今まで人から人への感染は起きてないと云われるものの、感染ルートも不明だとされており、勢いが衰えていないようだ。何とか早めに終息に向かってほしいものである。
 先日来下がっていた気温も徐々に上昇するとの週間予報で、春が戻ってきそうだ。その中で、次々と初夏の花が咲いている。今日は白い花。
Photo  ウツギ(空木)。別名卯の花ウツギノハナつづまってウノハナとなったとも云われるが、枝の芯が空洞で「空ろな木」から「空木」とか、旧暦の4月(卯月)に咲く故とも言われる。日本原産の木だが中国にも自生する由。丈夫で次々と花を咲かせるので、庭木や鉢植えにもされる。オカラウノハナというのはおからカラだからとの洒落もある。
Photo_2  ナニワイバラ(難波茨)。オオイバラ、キイバラなどの別名もある。江戸時代、宝永年間に、難波の商人によって移入されて、関西から全国に広まった故の名前だという。四国・九州の暖地では野生化している。花が咲く原種のバラだそうだ。

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2013年4月21日 (日)

争乱の戦国史6: 序論 戦国の予兆(5) 足利幕府体制の確立と栄華

 足利義満が若くして3代将軍となったとき、父・義詮(ヨシアキラ)が据えた管領・細川頼之を追放し、代って斯波義将(ヨシユキ)を管領に任じた。これは「康暦(コウリャク)の政変」と呼ばれ、以降義満は管領から自立して政務を主導する。
 この後も有力武士の領国等を巡り、大守護の動きを牽制し、脅威となる場合は弾圧した。1391年(明徳2)、一族で11ヶ国の守護を務めた山名氏を徴発し、挙兵・敗退させ、分国を削いだ。これが「明徳の乱」である。更に6ヶ国の守護で、朝鮮や明との貿易で利を得ようとした大内義弘を、1399年(応永6「応永の乱」で討伐した。こうして14世紀末には義満への対抗勢力は亡くなった。
 1381年、義満は京都・室町に広大な邸宅(花の御所)を作り、ここを拠点としたので、室町幕府と称された。
A  幕府組織を整備した義満は1394年(応永元)太政大臣となり、将軍を子の義持(ヨシモチ)に譲り、翌年出家し道義と改名した。しかし、京都・北山に造営した「北山第(キタヤマテイ)」を拠点に実権を握り続け「北山殿」と呼ばれた。
 北山第は政治の中心であると同時に、和歌や猿楽を催したり、芸術品を蒐集し文化の発信地ともなり、絢爛豪華な「北山文化」がここに開花した。北山第は義満死後、解体されその一部である鹿苑寺(金閣寺:写真)は残されて、権力と富の象徴となった。

 対外的には1401年、元寇以来途切れていた明との国交を回復。冊封関係を結び、貿易を独占し巨利を得ると共に、明から「日本国王源道義」の称号を得た。尤も、交易は物資の渡来以外に、進んだ芸術・文化が伝来している。

 しかし、義満死後、幕府内や寺院或いは地域の守護と民衆の抗争などが頻発・激化し始め、戦国時代へと進み始める。次回から愈々本論の戦国時代に入ります。

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2013年4月20日 (土)

少し冷え込んだ初夏

 この2,3日寒さが戻り最高気温15℃前後。朝夕は暖房が必要になって来た。勢いよく咲きかけた初夏の花が、開きかけた花びらを、止めている感じだ。
Photo  シャガ(射干、胡蝶花)。学名がIris japonica だが、日本原産ではなく、中国原産で、可なり古くに渡来した帰化植物だそうだ。全国に分布するが、これは人為的に広がったようで、自然林など人気のない場所にはないという。東京都は凖絶滅危惧種に指定されている。病害虫には強い花である。
Photo_2  キンギョソウ(金魚草)。地中海沿岸の原産で、日本には
江戸時代に渡来。花が金魚のおちょぼ口ににているとか、波打つ花びらが金魚の尾びれに似ているかとかの名の由来説。花の色や形は様々あり、北半球で金魚草の仲間は40種あるそうだ。金魚養殖の愛知・弥富市の市の花。
Photo_3  
コデマリ小手鞠)。別名スズカケ(鈴掛)。 中国原産で日本に帰化。最近は八重咲のヤエコデマリというのがある由。 近い仲間として、シモツケやユキヤナギは同属である。もうそろそろ花期も終わりに近い。

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2013年4月18日 (木)

麗らかな日和が続く

 気温は多少上下するが、実に麗らかな日和が続く。木々の開花も、季節の移ろい応じて順次代って行き、彼方此方で初夏の感じがし始めた。特に日差しが強くなったことを感じる。それで、今日は初夏の花を載せた。
Photo  テッセン(鉄線)。クレマチスの中の日本での代表種がこのテッセンである。蔓が堅いのでテッセンというが、クレマチス(Clematis)はギリシャ語のつるの意から来ている。これは我が庭の花。放置していても毎年沢山花をつける。日本が原種の品種はカザグルマ、ハンショウヅル、草牡丹、仙人草などで、自生もしている由。
Photo_2  ネモフィラ。和名のルリカラクサ(瑠璃唐草)は葉の形から唐草と名付き、瑠璃色だが、最近は写真のように模様のある白色系の園芸種も多い。ネモフィラの名はネモ(森)とフィレオ(愛する)の合成語だそうで、森の周辺に自生することに因んだ名だそうだ。写真は公園の中に愛好者が植えこんだもの。
Photo_3  アヤメ(菖蒲or綾目)。公園の桜の下に咲いていたもの。本来水とは関係なく植生するものだそうだ。前に垂れた花びらに網目模様があるのが特徴で、これがアヤメの名の由来。似た花の区別は花弁の基の処が黄色のが花菖蒲白いのがカキツバタ網目状がアヤメと区別される。

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2013年4月17日 (水)

初夏の雑草が咲いている

 ボストンマラソンゴール付近で二つの爆発があった。176人負傷し、17人が重体という。誰が、何のためにだか判らぬが、テロだと報じている。戦争は減少しているが、凶暴な犯罪は増加している感じだ。 今日は雑草の中に咲いている小さな草花を紹介。
Photo  ツタバウンラン(蔦葉海蘭)。別名、ツタガラクサ、ウンランカズラ。欧州からの帰化植物。これと花の形が似たのが多いが、花の大きさ(1cm弱)、葉の形、蔓性か否かで判断。これはつる性で匍匐性があり石垣も昇る。花数は多くはないが、柔らかい緑の葉の中でよく目立つ。今年は例年よりよく繁茂している。
Photo_2  アメリカフウロソウ(亜米利加風露草)。草丈50cm位の草だが、花は実に小さい5mm程度)。薄いピンクが混じり可憐な花だ。花数も少なく、よく見ないと見過ごしそうだが、全く嫌みのない実に清楚な花である。風露とは、木で囲まれた草刈り場の事で、そこに咲く草という意だそうだ。これは北米原産で、昭和初期京都で発見されたという。
Photo_3  タガラシ(田辛子、田枯し)。噛むと辛いので田辛子、もしくは繁茂して田を枯らすから田枯らしか、二通りの説がある。近年田の減少で、川沿など湿地に多いという。毒性もあり、余り好もしい草ではないが、小さな黄色い花に、大きな集合果を形成する特徴ある花である。

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2013年4月16日 (火)

争乱の戦国史5: 序論 戦国の予兆(4) 室町幕府、全盛期へ

 尊氏は戦上手の武勇者であったが、国内統治の行政能力は弟・直義の方が優れ、治政は直義に任せる、即ち軍事部門担当は尊氏、行政部門担当は直義と役割分担をした。しかし、徐々に考え方に相違が出てきて、何かと対立が増えてきた。そして側近を巻き込んで、幕府は尊氏派と直義派に分裂し、1350年(観応元)には「観応の擾乱」と呼ばれる内乱にまで発展した。
F_4   両派の対立は直義と尊氏の死後まで続き、2代将軍となった義詮(ヨシアキラ)(尊氏の子)と直冬(直義の養子)の代まで持ち越される。全国の守護や有力豪族も夫々を支持して対立、争乱は全国へと拡大した。この結果、地方の守護が力をつけ、後に「守護大名」へと成長してゆくことになる。当に戦国時代の予兆でとも云うべき事態が徐々に育まれ始めていたのである。

 1368年3代将軍に就任した足利義満は、後醍醐天皇の死後、衰退する一方だった南朝と北朝のとの講和を斡旋1392年に南朝の後亀山天皇が京へ戻り、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って譲位するという形でようやく統一を果たした。
 長期間にわたって続いた内乱を収拾した義満は、それまで朝廷が握っていた様々な権益を幕府のものとして経済基盤を築き、強力な独裁体制を作り上げる。足利幕府は義満の時代に、その絶大な指導力によって全盛期を迎えることになる

 幕府機構は後述するが、将軍の補佐役・管領は、細川・斯波・畠山の三管領が交替で勤め、東国には「鎌倉府」、西国には「九州探題」を核とし、全国支配を強化した。又、鎌倉府の長である「鎌倉公方」は尊氏の子・基氏が着任し、以降足利氏の子孫が、関東管領上杉氏の子孫が世襲する。

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2013年4月15日 (月)

忘れた頃に・・・・、淡路地震

 一昨日早朝、淡路にM6.3の地震発生。短時間だったので、大惨事は免れたものの、震源周辺は相応の被害あり、これは大地震の前触れでないかと心配されている。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。春真っ只中の花々を掲載する。
Photo  ハナミズキ(花水木)。ヤマボウシ亜属、別名アメリカヤマボウシ。花が見ごろを迎え、白とピンクが多いようである。1912年、ワシントンにソメイヨシノを贈ったお礼に贈られたのが、渡来の初め。花びらの様に見えるのは4枚の総苞で、真ん中の5mmほどのが花序で集合した花だ。秋には紅葉し赤い実をつける。
Photo_2  フジ(藤)。これも、例年より早く咲いている。別名ノダフジ。大阪・藤の名所野田より来た名前。最近は園芸用の1歳藤の鉢植えが人気があるとか。蔓は右巻きであるが、ヤマフジは左巻きだとか。藤が咲く頃、川でのウナギの夜釣りがよく釣れたことを思いだす。
Photo_3  クルメツツジ(久留米躑躅)。5月連休の久留米つつじ祭りを待たずに満開になりつつある。ツツジは久留米のシンボル花だ。海外にも「クルメアザレア」の名で知られている。霧島ツツジといわれる「サツキ」との交配種である。写真は普通の民家の庭に聳え立つように枝を張った樹高3m位の巨大ツツジである。

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2013年4月13日 (土)

争乱の戦国史4: 序論 戦国の予兆(3)足利尊氏の反乱と室町幕府

 1335年足利尊氏(戦功により天皇より尊氏を賜る)は京から関東へ出陣する。北条高時・鎌倉幕府14代執権)の遺児・時行が鎌倉を占拠した事件(中先代の乱という)が起き、この鎮圧を命じらた為である。尊氏は8月に京を発ち、10月には鎌倉を奪還するが、そのまま鎌倉に留まり天皇に対して反旗を翻したのである。
 尊氏反乱の原因は様々な要因が重なった結果であろうが、一説には征夷大将軍に任じられなかったためといわれている。

 後醍醐天皇は新田義貞を尊氏追討に派遣したが、箱根・竹之下の戦いで新田は敗北。勢いに乗って尊氏は京に攻め上ったが、ここで敗北し九州まで逃走
 しかし、1336年5月尊氏は反撃に転じた。細川禅定率いる四国水軍の御座船とする夥しい軍船を須磨沖に攻め寄せ、呼応して陸上部隊も鵯越、鹿松方面から攻め込む。そして中央部の大手部隊は、弟・直義が指揮した。水軍が約2万5千人、陸上軍が1万人前後と推定された。
F_2  一方これを迎え撃つ後醍醐天皇の部隊は総大将・新田義貞が和田岬一帯に布陣。推定約2万人の兵力。これに楠木正成正成馬上図の軍約700騎が加わり湊川に布陣し、直義軍に対峙。これを見て尊氏が軍船の部隊を上陸させたため、楠木軍は衆寡敵せず、6時間の激闘の末敗れ、楠木正成自刃して果てた。こうして湊川の戦は武士勢力を結集した足利軍の一方的な勝利で、入京し京を制圧した。

 翌1336年尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ、17条からなる「建武式目」を作成し、政治方針を示して幕府を開く準備を進めた。
 一方の後醍醐天皇は吉野に遁れて皇位の正統を主張。ここに南朝が誕生し、以後60年に亘って、今日の北朝と共に南北朝時代となる。鎌倉幕府を倒しての天皇親政はわずか3年で幕を閉じた

 1338年尊氏は光明天皇によってようやく征夷大将軍に任じられ、再び武家政権である室町幕府が開かれたのである。

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2013年4月11日 (木)

春が足踏み?でも花は咲く

 ここんところ、12,3℃の寒い日が続く。花芽が縮込むかと思いきや、一向にこたえる様子もなく、次々と花を咲かせている。今日は旬の花木の花を紹介。
Photo  モッコウバラ(木香薔薇)。これは秋篠宮家の真子内親王のお印である。今咲き始めたところ。バラだが、棘が無い所が好まれるのか、最近多い。これは八重咲で、3cm位の花が沢山付く。花色は白と黄だけだが、その内色んなのが出て来るだろう。病害虫に強いので育てやすく庭木に向いている。
Photo_2  ヤマブキ(山吹)。これもバラ科で、半月ほど前から咲いている。八重山吹花径3~4cmあり、豪華な感じである。太田道灌の話も八重咲だったとか。因みに、山吹色とはオレンジと黄色の中間で、「山吹色のお菓子」は小判の隠語。しなやかな枝が風に揺れる様子「山振」から「山吹」となった由。
Photo_3  ボタンザクラ(牡丹桜)。サトザクラの別名。八重桜の事。色んな桜が散ってしまい、最後に咲くのがこのボタンザクラ。今満開で、大きな花がぎっしりと付き、豪華ではあるが、なんだか木も重そうである。花径は5cm以上ある。最後の桜として、惜しまれながら咲く花ではある。

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2013年4月 9日 (火)

争乱の戦国史3:序論 戦国の予兆(2) 鎌倉幕府の滅亡と天皇親政

 元弘の変(1331年)後、河内の『悪党』と呼ばれた武士集団のリーダー・木正成が畿内の勢力を結集して倒幕運動を展開すると、後醍醐天皇の皇子・護良親王は比叡山など寺社勢力や武士に挙兵を呼びかけるなど、各地で倒幕の火の手が上がり始めた。
 1333年(元弘3・正慶2)になると播磨(兵庫)の赤松則村をはじめ九州や四国で反幕府の挙兵が相次いだ。この戦局の好転に乗じて、後醍醐は、同年閏2月に隠岐を脱出。名和長年に迎えられて伯耆(鳥取)の船上山に布陣した。これにより倒幕勢力は一層勢いづいた
 この様な動きに危機感を持った鎌倉幕府は、同年下野国足利(栃木・足利市)の足利高氏(のち尊氏)を反幕府勢力・赤松征討のため京に派遣した。しかし、丹波国の自領・篠村で高氏は反幕府の旗を揚げ、天皇方に転じた。5月、赤松軍と合流した高氏は六波羅探題を壊滅させた。
F3  更に、その5月、関東では上野国新田庄の新田義貞倒幕の兵を挙げ、結城宗弘らと共に、鎌倉を襲撃。得宗・北条高時を自殺に追込み北条氏は滅亡し、ここに鎌倉幕府は消滅した

 1333年京に戻った後醍醐天皇は、翌年「建武」と改元して、天皇親政を実現した。後醍醐天皇の政策・「建武親政」は天皇の権限強化を主とし、従来の伝統的摂関政治を無視したため、公家には戸惑いや不安も多くなった。又、倒幕の論功では公家に厚く、直接の功労者の武士は冷遇された。更に、旧来の所領は改めて天皇の「安堵」を受けねばならず、天皇中心を主張するあまり政治的バランスを欠き、武士を中心に天皇への不満が募ってきた
 即ち、後醍醐天皇の「建武親政」はわずか2年余りの短命で終わらざるを得なかった。この政権の特徴は、天皇の命令を伝える「綸旨(リンジ)」を連発し、軍事も経済もすべて天皇自身が掌握しようとした点である。中でも「所領は全て天皇綸旨による安堵」という現実無視の法令が混乱を招き、余儀なく撤回した。尚、家格無視の人事、天皇専制の徹底は武家、公家ともに反発し、1335年末(建武2)、足利高氏との戦端開かれ、内乱へと突入する

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2013年4月 7日 (日)

咲き始めた可憐な花々

 福島の第一原発の汚水漏れが報じられた。合成樹脂の防水シートで、地中に貯水槽を作ることはよくあることである。私の知る限り、河川の少ない離島などでは、農作物への散水用にはよく造られており、中には、雨水を貯めてクルマエビを養殖している所もある。
 それが何故漏れたのか。普通の水でなく高濃度の含有塩類の影響やその他種々の原因を学者方は言っておられるが、真の原因が判ってない。急ごしらえ、場当たり仮設との批判もあるが、学者諸先生、批判でなく建設的な施策を建言してください。
 腹立たしい事の多い世の中、自然は美しい花々を見せてくれている。今日は小さな花。
Photo  キリシマミズキ(霧島水木)。正直って、トサミズキヒュウガミズキかその区別がはっきりしてない。が、花の形よく見ればキリシマかと断定した。鹿児島・霧島山地には自生し、四国にも分布するが、これは兵庫県・西宮市の北部山地の料亭で先日見掛けたもの。故に園芸植樹ゆえ、あり得るかと独断。
Photo_2  ドウダンツツジ(灯台躑躅或いは満天星と書く)。ドウダンは昔、宮中行事に用いた「結び灯台」の脚部に、枝分かれ状態が似ている故の名前で、トウダイ→ドウダンとなった由。生垣など植込みに使われ、今一斉に咲き始めた。下向きの鈴蘭様の花が、馬酔木にも似て可愛い。

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2013年4月 6日 (土)

春真っ只中の繁茂の野草

 今日は日本列島は“春の嵐”に覆われるという予報通り天候不順だが、昨日は実に暖かく気持ちよい春日和ったので、ぶらぶらと木々の花を眺め乍ら歩いた。ところが今春は例年になく、草花(雑草)が元気よく繁茂しているのに驚いたので、その代表的なものを紹介。
Photo  ケキツネノボタン(毛狐野牡丹)。今春はこの花が田の畦や畑の中まではびこり、一面を黄色い花が埋めていた。これによく似た花は多く、タガラシの仲間だが、取分けキツネノボタンとはよく似ているが、果実(痩果)の先が曲がらず尖がってコンペイトウのような点が特徴(写真でお判りだろうか)。 
Photo_2  クサイチゴ(草苺)。キイチゴ属の小低木。背丈が短い故、クサ苺といわれる。林などに多いが、これは平地の数本の木の下一面をこの草苺が覆っていた。この花雄蕊、雌蕊がよく目立つ。5~6月には赤い実をつけ、食べられる。別に珍しくもないが、こんなに繁茂して咲いているのに驚いた。
Photo_3  カラスノエンドウ(烏野豌豆)。正式名はヤハズエンドウ(矢筈豌豆)。ソラマメ属だから空豆と同じ花。今年はこの花があちこちはびこり、レンゲ畑にまで侵入し1/3程を占めてしまっているところもある。しかもよく育っている。この豆が成熟すると黒くなるところから烏野豌豆という。

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2013年4月 5日 (金)

争乱の戦国史2: 序論 戦国の予兆(1)鎌倉幕府の衰退

 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、地方における守護・地頭の統治・支配力が衰え、且つ国内統治力即ち幕府の威力も揺らぎ始める。そしてやがて戦国時代へと変遷する時期のこと及びその頃の東アジアの情勢『序論』として概述する。
 元寇文永(1274)、弘安(1281)の役)の後、守護・地頭の大半を一門で独占した北条氏の権力は強大となり、北条氏の嫡流当主(得宗と称す)が鎌倉幕府の執権として、北条独裁政治(得宗専制政治と呼ぶ)を行ってきた。
 しかし鎌倉幕府も中期頃から、次第に御家人たちの信頼を失い、その支配にもほころびが現れ始めた。一方朝廷には「持明院統」「大覚寺統」の二つの勢力が生まれ、皇位の継承や荘園の所有権を争うようになった。幕府は1317年(文保元年)に「文保の和談」を示し、夫々の統から交互に天皇を出す「両統迭率(テツリツ)を定めて事態収拾に努めた。(下図は法衣を纏い護摩祈祷する天皇)。
F2  この情勢下、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は「朱子学」を学び、「天皇親政」を理想としていた。そこで即位3年後、自らの政務機関「記録所」を開設し、家格にとらわれず人材を登用、又酒屋から税を徴収し検非違使庁に洛中の民事訴訟を管轄させた。これらの施策により、寺社権門が集まる京都を直接支配しようとしたのである。
 その一方「無礼講」と称する幕府の目を欺く宴会で、同志を集め倒幕計画を練った。ところが同志の妻からこれが漏れ未遂に終わった。これが1324年「正中の変」であるが、幕府はこれを荒立てることなく一部公家の流罪で済ませた。

 ところが、後醍醐は懲りず、倒幕をめざす。先ず息子の護良親王を天台座主に据え、南部北嶺の僧兵の軍事力の取り込みを図る。そして2度目の倒幕を1331年(元弘元年)に企てたが、又もやこれが露見し、未遂に終わった。これが「元弘の変」である。
 後醍醐天皇は京都を逃れ、笠置山(京都・笠木町)に布陣するが。なすすべもなく幕府軍に敗れ捕縛された。持明院統の光厳天皇が践祚し(即位前に行う皇位継承の儀)、翌年後醍醐は流された。

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2013年4月 3日 (水)

春うららか

 最近を、まさに季語でいう「春うらら」というのではないだろうか。この暖かくて、ふんわりと暖かい日差しが大好きである。そんな中どんどん過ぎ行く春を追う様に色んな花が次々と咲きみだれる。今日は普通なら4月半ばに咲くと思われるが今年は早い花を紹介。
Photo  エニシダ(金雀枝)。江戸末期~明治初期導入されたもの。エニシダ属だけで200種あるそうだが、これは園芸種の「ヒメエニシダ」だろう。温暖な地によく育ち、病害虫に強いので、よく庭きとして植栽されている。これも民家の庭先のもの。
Photo_2  キリシマツツジ(霧島躑躅)。躑躅の産地、久留米で霧島を品種改良して造られた「クルメツツジ」といわれるの1種。まだ葉が付かず、花ばかりが咲いて、生垣からはみ出ていたので、撮ったもの。
Photo_3  アセビ(馬酔木)。アヤボチンという有毒成分を含み、馬が食べると、足がなえて、酔ったようになるところからの名前。因み足廃(あしじひ)が変化し、「あしび」→「あせび」となった由。基本種は白い花だが、これは園芸種でピンクの花。

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2013年4月 1日 (月)

争乱の戦国史1: はじめに 新規連載ご挨拶

 従前「倭国の興亡」として古代史を連載しましたが、八世紀初頭に天皇制が確立し、国号も「日本国」と改まりました。即ち“倭国”が消滅したところでシリーズを終了しました。

 そこで、日本史では古代史に次ぎ面白くて、人気の高い「戦国時代」を題材とした新シリーズを始めることにしました。戦国を選んだのは「何故世界でも類を見ないような、長年にわたる国内争乱が継続したのか」を探るため、「戦国時代」をいろんな視点から見直したい、という気持ちがあったからでもあります。それで、今回は「争乱の戦国史」のタイトルで新たなシリーズ開始することにしました

 国内は争乱の渦に巻き込まれ、約200年間、国内全般を統治する人も機構もなく、各地の有力者が支配する「国々」を併合したり、分離したりを繰り返しながら、徐々にまとまりを見せ、家康が徳川幕府を開きようやく戦乱のない統一国家が出現したのです。
 しかし、この間、日本の最高統治者たる天皇家は連綿と継続し、いろんな形で外国文明を摂取し、文化程度を引き上げつつ、且つ一度も外国の侵犯を受けずに来たことは、世界に例を見ない歴史であります。この謎と秘密に迫ってみようと考えた次第です。

 ところで、戦国時代はいつからいつまでか? 昔は殆ど1490年代、北条早雲が出現し群雄割拠が始まる頃から、信長が本能寺に没するまでだった。
 しかし、現在は「国に絶対的な権力者がいなくて、統一的な統治がなされていない時代」という見解が多い。よって、当シリーズでは全国的に守護大名が強大化し始める頃、1416年関東の上杉禅秀の乱が起きたときから、徳川幕府が設立されるまでの約200年間を戦国時代として記述することにしました。
 その間の戦乱を中心に記述しますが
、「何故命を懸けて争わねばならなかったのか」という疑問は、「価値観が違う時代でも『なぜ人は生きるのか』というテーマにゆきつくのでないか」とも思っています。
 尚、画期的に急に戦国となる訳ではないので、その予兆としての連続した
鎌倉幕府の滅亡から足利幕府最盛期までを序論として概観しておきます。
 又、タイトルの「争乱の戦国史」は争乱期、戦国期と同じことを重ねた感じになりますが、これは、
争乱が続いた戦国時代の歴史」を約めて「争乱の戦国史」とした次第です。

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