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2013年4月21日 (日)

争乱の戦国史6: 序論 戦国の予兆(5) 足利幕府体制の確立と栄華

 足利義満が若くして3代将軍となったとき、父・義詮(ヨシアキラ)が据えた管領・細川頼之を追放し、代って斯波義将(ヨシユキ)を管領に任じた。これは「康暦(コウリャク)の政変」と呼ばれ、以降義満は管領から自立して政務を主導する。
 この後も有力武士の領国等を巡り、大守護の動きを牽制し、脅威となる場合は弾圧した。1391年(明徳2)、一族で11ヶ国の守護を務めた山名氏を徴発し、挙兵・敗退させ、分国を削いだ。これが「明徳の乱」である。更に6ヶ国の守護で、朝鮮や明との貿易で利を得ようとした大内義弘を、1399年(応永6「応永の乱」で討伐した。こうして14世紀末には義満への対抗勢力は亡くなった。
 1381年、義満は京都・室町に広大な邸宅(花の御所)を作り、ここを拠点としたので、室町幕府と称された。
A  幕府組織を整備した義満は1394年(応永元)太政大臣となり、将軍を子の義持(ヨシモチ)に譲り、翌年出家し道義と改名した。しかし、京都・北山に造営した「北山第(キタヤマテイ)」を拠点に実権を握り続け「北山殿」と呼ばれた。
 北山第は政治の中心であると同時に、和歌や猿楽を催したり、芸術品を蒐集し文化の発信地ともなり、絢爛豪華な「北山文化」がここに開花した。北山第は義満死後、解体されその一部である鹿苑寺(金閣寺:写真)は残されて、権力と富の象徴となった。

 対外的には1401年、元寇以来途切れていた明との国交を回復。冊封関係を結び、貿易を独占し巨利を得ると共に、明から「日本国王源道義」の称号を得た。尤も、交易は物資の渡来以外に、進んだ芸術・文化が伝来している。

 しかし、義満死後、幕府内や寺院或いは地域の守護と民衆の抗争などが頻発・激化し始め、戦国時代へと進み始める。次回から愈々本論の戦国時代に入ります。

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