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2013年4月13日 (土)

争乱の戦国史4: 序論 戦国の予兆(3)足利尊氏の反乱と室町幕府

 1335年足利尊氏(戦功により天皇より尊氏を賜る)は京から関東へ出陣する。北条高時・鎌倉幕府14代執権)の遺児・時行が鎌倉を占拠した事件(中先代の乱という)が起き、この鎮圧を命じらた為である。尊氏は8月に京を発ち、10月には鎌倉を奪還するが、そのまま鎌倉に留まり天皇に対して反旗を翻したのである。
 尊氏反乱の原因は様々な要因が重なった結果であろうが、一説には征夷大将軍に任じられなかったためといわれている。

 後醍醐天皇は新田義貞を尊氏追討に派遣したが、箱根・竹之下の戦いで新田は敗北。勢いに乗って尊氏は京に攻め上ったが、ここで敗北し九州まで逃走
 しかし、1336年5月尊氏は反撃に転じた。細川禅定率いる四国水軍の御座船とする夥しい軍船を須磨沖に攻め寄せ、呼応して陸上部隊も鵯越、鹿松方面から攻め込む。そして中央部の大手部隊は、弟・直義が指揮した。水軍が約2万5千人、陸上軍が1万人前後と推定された。
F_2  一方これを迎え撃つ後醍醐天皇の部隊は総大将・新田義貞が和田岬一帯に布陣。推定約2万人の兵力。これに楠木正成正成馬上図の軍約700騎が加わり湊川に布陣し、直義軍に対峙。これを見て尊氏が軍船の部隊を上陸させたため、楠木軍は衆寡敵せず、6時間の激闘の末敗れ、楠木正成自刃して果てた。こうして湊川の戦は武士勢力を結集した足利軍の一方的な勝利で、入京し京を制圧した。

 翌1336年尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ、17条からなる「建武式目」を作成し、政治方針を示して幕府を開く準備を進めた。
 一方の後醍醐天皇は吉野に遁れて皇位の正統を主張。ここに南朝が誕生し、以後60年に亘って、今日の北朝と共に南北朝時代となる。鎌倉幕府を倒しての天皇親政はわずか3年で幕を閉じた

 1338年尊氏は光明天皇によってようやく征夷大将軍に任じられ、再び武家政権である室町幕府が開かれたのである。

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