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2013年4月 9日 (火)

争乱の戦国史3:序論 戦国の予兆(2) 鎌倉幕府の滅亡と天皇親政

 元弘の変(1331年)後、河内の『悪党』と呼ばれた武士集団のリーダー・木正成が畿内の勢力を結集して倒幕運動を展開すると、後醍醐天皇の皇子・護良親王は比叡山など寺社勢力や武士に挙兵を呼びかけるなど、各地で倒幕の火の手が上がり始めた。
 1333年(元弘3・正慶2)になると播磨(兵庫)の赤松則村をはじめ九州や四国で反幕府の挙兵が相次いだ。この戦局の好転に乗じて、後醍醐は、同年閏2月に隠岐を脱出。名和長年に迎えられて伯耆(鳥取)の船上山に布陣した。これにより倒幕勢力は一層勢いづいた
 この様な動きに危機感を持った鎌倉幕府は、同年下野国足利(栃木・足利市)の足利高氏(のち尊氏)を反幕府勢力・赤松征討のため京に派遣した。しかし、丹波国の自領・篠村で高氏は反幕府の旗を揚げ、天皇方に転じた。5月、赤松軍と合流した高氏は六波羅探題を壊滅させた。
F3  更に、その5月、関東では上野国新田庄の新田義貞倒幕の兵を挙げ、結城宗弘らと共に、鎌倉を襲撃。得宗・北条高時を自殺に追込み北条氏は滅亡し、ここに鎌倉幕府は消滅した

 1333年京に戻った後醍醐天皇は、翌年「建武」と改元して、天皇親政を実現した。後醍醐天皇の政策・「建武親政」は天皇の権限強化を主とし、従来の伝統的摂関政治を無視したため、公家には戸惑いや不安も多くなった。又、倒幕の論功では公家に厚く、直接の功労者の武士は冷遇された。更に、旧来の所領は改めて天皇の「安堵」を受けねばならず、天皇中心を主張するあまり政治的バランスを欠き、武士を中心に天皇への不満が募ってきた
 即ち、後醍醐天皇の「建武親政」はわずか2年余りの短命で終わらざるを得なかった。この政権の特徴は、天皇の命令を伝える「綸旨(リンジ)」を連発し、軍事も経済もすべて天皇自身が掌握しようとした点である。中でも「所領は全て天皇綸旨による安堵」という現実無視の法令が混乱を招き、余儀なく撤回した。尚、家格無視の人事、天皇専制の徹底は武家、公家ともに反発し、1335年末(建武2)、足利高氏との戦端開かれ、内乱へと突入する

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