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2013年4月29日 (月)

争乱の戦国史8 (室町Ⅰ02): 明徳の乱

 12ヶ国の守護職となった山名時氏の嫡子・師義は時氏の死後5年、1376年(永和2)に没した。師義の子が若いので弟・時義が中継ぎ惣領となり、次期惣領に師義次男・氏之を指名した(嫡男・義幸は病弱)。この措置を不満としたのは、義幸の代官を務めてきた氏之の弟・満幸だ。こうして山名時義・時熙父子と対立した氏清・満幸は将軍義満の走狗として動いた。
 この疑心暗鬼状況で、氏清は時煕を、満幸は氏之を攻めた。そして満は時煕と氏之を赦免し、逆に満幸は後円融上皇所領の出雲の荘押領のかどで京を追われた。ここに官軍だった満幸と氏清は逆賊と化し、明徳の乱に至る

 婿・満幸の執拗な勧誘に屈した山名氏清1391年(明徳2)12月、分国和泉から八幡迄軍を進め、満幸も丹後に出て丹波に入った。又山名氏家も家臣に引きずられ京を出奔し、氏清軍に合流。一方幕府方は合戦評定で義満の一言で合戦に決し、京都内野に陣を張った。30日早朝、氏清の弟・山名義数等の軍と幕府方大内義弘勢合戦の火ぶたが切られ、4時間の激戦で、義数は討ち死。入れ替え勢の赤松義則が大内と交替して、山名氏家の軍勢を迎え撃った。
8  その頃、丹波から京に入った山名満幸細川・畠山・京極勢との間で戦闘、将軍・義満は馬回り勢にも出陣させ満幸勢を京都西郊梅津へ追った。
 結局、山名氏清は、赤松の入替勢・一色詮範(アキノリ)・満範親子首級を上げられた。戦死者は山名方879名に対し、幕府方も160以上に上った。
 翌年、評定により、旧山名分国が諸大名に配分され、山名時煕が但馬氏之が伯耆を夫々回復し、氏清方に付いた氏家は本領因幡を安堵されたものの、他の8ヶ国は全て他家の手に移り、山名勢力削減という義満の目的は達せられた。(は明徳の乱による山名氏の領地の変動

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