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2013年3月 3日 (日)

倭国の興亡187: 恵美押勝の乱

 謀反人となった押勝は、764年9月11日夜、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。近江は藤原氏が代々国司を務めた政治的基盤の地であり領国のようなもので、押勝自身近江守だった。且つ美濃も越前も押勝の子が国司だったので、近江国府を前線基地とし、越前・美濃両国で兵を徴発し平城京を奪還する計画だった。それで、夜押一行は宇治を通って近江国に入った。
187  しかし、いずれも瀬田川を渡らねばならない。ところが軍略の天才吉備真備が孝謙の軍参謀に起用されており、既に彼により押勝の戦略は先読みされ、瀬田橋は焼き落とされたのである。(吉備真備
 結果、押勝は琵琶湖西岸を北上する外なく、12日夜は近江国高島郡に留まって、先ず越前入りすることと、朝敵と言われないために新たに天皇を立てようと決めた。しかしその間、吉備真備は近江国府を佐伯伊多智軍に落とさせ、その一部の軍が越前国を急襲し、押勝の子・越前守辛加知を殺害していた。
187_2  それを知らず、13日朝、押勝一行は道祖王の兄・氷上塩焼を天皇とし、太政官印を用いて布告し、高島郡を発った。そして越前・愛発関攻略を図ったが、既に孝謙側の物部広成に占領されていた。やむなく琵琶湖横断を試みたが逆風に押し戻され、高島郡に引返し戦闘を繰り広げたが決着がつかなかった。(押勝進軍路
 そこへ孝謙方の援軍・藤原蔵下麻呂軍が現れ、形勢は押勝が一挙に不利となり湖上に遁れた。そして最後の決戦に敗れ、鬼江に浮かぶ船上にて石村石楯(イワレノイワタテ)という武官に斬られ、59歳の生涯を閉じた

 孝謙に押勝の死の報が届いたのは14日、かって左遷された押勝の兄・藤原豊成が右大臣に復活した。又、20日には道鏡を大臣禅師に任じている。
 尚、10月9日には孝謙は淳仁天皇を廃し、大炊親王として淡路に流し幽閉した。

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