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2013年3月11日 (月)

倭国の興亡189: 蝦夷の乱

 道鏡が配流(770年)されてより10年ほど時代が下る頃、平穏であった東北地方にも争乱が始まる。当時、岩手県・胆沢(イサワ)は蝦夷の地であった。そこからはるか南(旧築館町)に伊治(コレハル)という倭国の軍事施設があった。780年蝦夷の伊治呰麻呂が内輪揉めから、そこの紀広純(鎮守将軍兼陸奥守)を殺害し、軍を率いて南下、東北支配の軍事拠点・多賀城に攻め込み、軍事機能を破壊し、灰燼に帰した。
  結果、多賀城以北は蝦夷の略奪破壊に任され、倭国防衛線は一挙に多賀城以南へと後退し、蝦夷対倭国の対決となった。
 政府は直ちに征討軍を派遣する。780年3月中納言・藤原継縄(征討大使)と阿倍家麻呂(鎮荻将軍)に統一戦線を組ませたが、対峙したまま2ケ月が過ぎた。
 蝦夷軍の動きは活発になったが、政府軍は動かず翌781年6月戦闘終了の報告が来た。軍は8月に帰還し、副使・大伴益立は冠位剥奪された。

 その後政権交代などで若干間を置き、782年中納言・大伴家持に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、回復した多賀城に兵糧、兵器など集め始めた。788年参議・紀古左美が征討大使に任命され、789年3月古左美の征討軍が多賀城に入った。5万人の兵は堂々と胆沢をめざし、衣川に達したころ、賊軍に遭遇したが抵抗もなく思わず深追いした。しかし、これが敵の計略だった。
 潜んでいた蝦夷軍に、政府軍は包囲された。この指揮を執ったのが阿弖流為(アテルイ)だった。4000人の政府軍は蝦夷の騎馬隊に蹂躪され陣形はかき乱され、我先に逃げたが、多くが溺死した(渡河部隊の82%が戦死傷者)。
189  そして791年、征夷大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂が起用され、十分な下準備をして794年正月に大使が、6月に副使・田村麻呂が合わせて10万の大軍を率いて出立した。797年坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、戦いの詳細は不明だが、同年9月には「夷賊を討伏した」の報告がある。(蝦夷軍砦の遺構
 802年正月には胆沢城が築かれ始め、4月には阿弖流為が投降し、戦いはほぼ終結し、翌年志波城も築かれて監視体制が完成し、25年に及んだ蝦夷・倭国戦争はここに終結した。田村麻呂の蝦夷への懐柔作戦が功を奏したと云われる。

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