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2013年3月 7日 (木)

倭国の興亡188: 最後の女帝と法王道鏡

 淳仁を廃帝した孝謙は自ら重祚(復位)として振舞い、通称称徳天皇と呼ばれた。
 765年、前年の兵乱に引き続き、飢饉が各地で起こり米価は暴騰した。この8月兵部卿和気王の謀反事件が起きた。舎人親王の孫の和気王は一旦臣籍に降ったが、叔父淳仁の即位で皇親に戻ったが、自身の即位と称徳・道鏡の死を祈願する願文を書きつけていたとして、絞殺されたものである。
 称徳は10月13日から閏10月初めまで、固関(関封鎖)をかけて淡路に行幸した。この行幸は二つの目的があった。一つは淡路幽閉中の大炊親王の復位を封じること、もう一つは銅鏡の太政大臣禅師任官である。称徳が淡路到着後、大炊親王は脱走に失敗し死んだが、この行幸は大炊親王に死を賜うのが目的の行幸だったと云われている。皇位継承資格者(和気王と大炊親王)の死を受けて、称徳は心おきなく皇親外の道鏡を太政大臣禅師に任じた。そして11月、重祚を宣言する大嘗祭を挙行した。そして、766年10月道鏡を法王とした。天皇に匹敵する地位であり、称徳天皇ー道鏡法王の二頭体制を構築したのである。
188  称徳ー道鏡政権の仏教安定策に二つの大事業が行われた。一つは西大寺行幸と尼寺西隆寺の造営766年)であり、も一つは百万搭の造立事業であり、770年に完成し諸寺に分置された(は現存の法隆寺百万搭)。
 尚、日本で3番目の銭貨「神功開宝」を発行したが、大幅な物価上昇対策と共に押勝からの決別表明と受取れる。

 769年頃道鏡絶頂期であり、後はいかにして天皇となるかというまでになった。この時、大宰府の神官・習宜阿曽麻呂が「道鏡を天皇にしたら天下は太平になると宇佐八幡が言っている」と道鏡に触込んだ。これを真に受けた道鏡は早速称徳に報告し、称徳は和気清麻呂に「託宣を下したとの八幡神のお告げがあった」といって宇佐八幡に赴かせた
 ところが、清麻呂が伝えた宇佐八幡の託宣は、称徳と道鏡の期待に反するもので、「我が国始まってい以来、君臣の秩序は定まっている。皇位には必ず天皇家の血筋を引く者をたてよ」と託宣し、道鏡排除の助力を約束したという。当然称徳と道鏡は託宣が捏造だと決めつけ清麻呂を左遷した。しかし、翌10月の旬政(シュンノマツリゴト)で、称徳は諸臣に言い訳をし、自戒の意を表した。これが有名な「宇佐八幡宮託宣事件」である。

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