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2013年2月23日 (土)

倭国の興亡185: 東北版図拡大と新羅征討計画

185  藤原恵美押勝による東北経営は陸奥国・桃生城、出羽国・雄勝城に代表される。両城造営方針は757年の勅に在り、760年1月の両城完成に褒賞された。他にこの頃、出羽柵は秋田城に造りかえられ、多賀城も大規模な改作があった。これらを一括主導したのは押勝・朝狩親子で、これを顕彰するため、762年多賀城碑が造立された。
 これら東北経営の強化策は一応成功し、東北情勢の安定38年戦争に突入する774年まで続く。
  一方この頃、押勝政権は新羅征討を計画していた。その頃の対新羅関係は、752年の大仏開眼会の際、王子・金泰廉の来日はあったが、朝貢を求める日本と対等外交を求める駆け引きでしっくりしてない。
185_3   しかし、これ以降の新羅使は貿易使節としての性格を持ち、大宰府における大規模な貿易活動が生まれている。正倉院の「買新羅物解」という文書に当時の購入された新羅の物品や値段のリストがある。しかし、760年来日の新羅使は身分が低いと追い返している。(下図:当時もたらされた正倉院蔵、平螺鈿鏡)。
 押勝は対新羅強硬策を打ち出すため、先ず758年遣渤海大使・小野寺守を派遣し、同年帰国した。その時の情報で、唐の案禄山の乱勃発を知る。755年異民族出身の安禄山が玄宗皇帝に反旗を翻したものであったが、押勝政権は全て大宰府任せであった。当時大弐・吉備真備という碩学が大宰府にいたせいもある。又、この危機感を逆手にとって積極外交に転じ、政権安定に利用した節もある。
 新羅征討計画は759年に、3年後に500隻の船築造する計画。761年美濃・武蔵の少年20人ずつに新羅語を習得させ、東海・南海・西海道に節度使設置762年筑前・香椎廟ほか全国の神社に戦勝祈願の奉幣。しかし、結局新羅出兵はされず、762年の渤海使のもたらした情報は、安禄山の乱の終末と玄宗の死であった。
 こうして、唐国内の情勢変化や、渤海と唐との関係から、渤海の日本との連携も不要となり、これら東アジアの情勢変化は、新羅征討を正当化する理由を失わせた

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