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2013年2月 7日 (木)

倭国の興亡181: 聖武出家と大仏開眼

 743年の元日朝賀の儀を最後に、体調不良の聖武は政務への関心を失い、仏教信仰に埋没し、大仏造立の東大寺への行幸を繰り返す。
 747年時点の議政官は橘諸兄が左大臣(743年)で、参議に藤原豊成の2歳年下の弟・藤原仲麻呂と紀麻呂が新たに補任された。
 748年には法華経千部の書写が新たに開始されたが、その完成を見ず元正太上天皇が死す。結果、大仏造立の華厳経書写は中断した。
181  更に大仏造立への痛手は、749年菩薩と仰がれた行基が死去した事である。大仏造営の工事を推し進めるなど大きな役割を果たし、完成時には開眼師を務める立場にあったのである。(図唐招提寺の行基像
 749年聖武天皇は、大僧正行基から菩薩戒を受けて出家した。元正生存中は聖武の譲位や出家は難しかったが、元正死去に伴い、皇太子安倍内親王の即位の動きも加速された。実質的に天皇不在の状況の中、国中狂喜させたのは陸奥国での金の発見である。(大仏鍍金に多量の金を要した)。

 749年、阿部内親王が即位し孝謙天皇となった。即位、参議・藤原仲麻呂大納言になった。又首班・橘諸兄の子息・橘奈良麻呂も参議に補任された。
 孝謙天皇即位後、紫備中台(皇后宮職の改組)が創設され、光明皇后が皇太后になるのに対応した。この長官は大納言・藤原仲麻呂が就任し、更に中衛大将をも兼任したことで、権力を掌握していったのである。
181_2  751年孝謙、東大寺行幸。同10月聖武太上天皇不予(病気)。752年4月9日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺に行幸し、大仏開眼供養会が挙行された。執行する僧侶千人余り、僧尼、沙弥(少年僧、未出家僧)など計1万人が集まり、開眼用の筆に繋がる200mに及ぶ下図藍染の絹糸の縄、これを握ると開眼に加わったことになる)が結わえられた。この後華厳経講説があり、その後は歌舞等による祝賀行事が盛大に執り行われたのである。大仏建立は律令国家の理念の実現であり、その到達点の象徴が大仏開眼会であった。

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