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2013年2月19日 (火)

倭国の興亡183: 橘奈良麻呂の乱

 聖武が没した時、「遺詔」の形で孝謙天皇の後嗣を新田部親王の子・道祖(フナド)に決定した。(令では天皇の皇子、兄弟を『親王』、親王の子を『王』と呼ぶ)。しかし、その後1年経たない757年3月には道祖王の言動よからず廃された。そこで、4月4日、孝謙は群臣に図り、仲麻呂の意見を聞いたうえで、新田部親王の弟・舎人親王の一番若い大炊王が悪い風評もなくよいと思うと重臣たちに諮られ、大炊王を皇太子に決定した。この会議の筋書きは仲麻呂と孝謙の間で予め用意されていたものだった。
 皇太子交替から間もない757年5月、聖武の一周忌斎会の終了を待っていたかのように大きな政変が始まる。聖武なき後、叔母である光明皇太后をバックに発言力を強める藤原仲麻呂を討つべく、757年7月に起こった橘奈良麻呂の変である。
 政治体制も、皇位継続も藤原一族即ち不比等の娘・光明皇太后とその娘・孝謙上皇が実権を握り、その家政機関である紫微中台が行政機関の中枢となりその長官に藤原仲麻呂が就任していた。皇室と行政機関をすべて掌握していた訳で、すべてを私していると憤激したのが橘奈良麻呂であった。
183  以前より、奈良麻呂は打倒藤原を何かと画策してきたが、この時にいたって怒りの頂点に至った。7月2日打ち合わせ通り、黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人を中心とした精兵400人で田村台を囲み、古麻呂が不破の関を掌握すべく兵を挙げた
 一方、仲麻呂たちは不穏な動きを察知しており、6月には戒厳令を敷いており、6月末には密告があって、事前に陰謀は発覚した。7月2日、孝謙が自生せよとの詔を出したが応じず。翌3日、仲麻呂に密告があり、孝謙に奏上。即刻小野東人を拘禁し、道祖王邸を包囲。その後前記の主な謀反人を呼び出し拘束説諭した。しかし、4日事態は急転し、厳しい取り調べが行われ、拷問を受けて前記首謀者は杖下で獄死、他の主だったものは佐渡や土佐への流罪に処された。総数443人に達したそうである。(:光明子の親譲りの持念仏
 奈良麻呂クーデター未遂事件後、一気に進んだ仲麻呂専制支配体制の総仕上げが、大炊王の即位(淳仁天皇)である。

〔お詫び〕
前回、この183回を飛ばし、184回を先にアップロードしております。後先、逆順になっております事、お詫び申し上げます

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