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2013年2月15日 (金)

倭国の興亡184: 淳仁即位と仲麻呂の栄光

 758年8月、孝謙は皇太子大炊王に譲位、大極殿で即位し淳仁天皇が誕生した。同日、孝謙に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明に「天平応真仁正皇太后」の尊号を贈った。更には役所名を中国風に改めて、藤原仲麻呂には功績にふさわしい名を諮問し、藤原恵美朝臣押勝の名が与えられ(以降仲麻呂押勝と表記)、鑑真には「大和上」の称号を贈っている。(下図鑑真坐像
184  一方、押勝には、本来律令国家の権限である功封・功田とともに鑄銭(造貨)と出挙(銭貨や稲の貸付)の権利を与えるという異例の措置が取られ、恵実家の私印使用も許可している。

 押勝の専制体制の総仕上げの時期、淳仁新天皇の位置づけは非常に低い。淳仁の名は明治での追贈であり、のち天皇を廃され淡路に流され「(淡路)廃帝」と呼ばれ、日々の記録でも単に「帝」とされた。
 傀儡という程の淳仁即位に対し、押勝は自ら大保に任じ、760年には大師となり。大宝以来初の大政大臣任官となった。しかも孝謙太上天皇の勅による。
184_4  この時期、押勝政権は二つの特徴的な経済策を採った。一つは760年、新銭の万年通宝を和銅開珎以来52年ぶりに発行した。この通貨1枚は和同開珎10枚に相当するとされたが、次第に同等となった。下落した銭貨価値の回復と贋金対策だった。(写真左が万年通宝、右は金貨・開基勝宝)
 もう一つは、759年平準署と常平倉の設置である。常平倉は諸国の非常用備蓄稲(公廨(クゲ))の一部を割いて京に置き、物価高騰時に放出する物価安定策と運脚の疲弊を救う制度で、平準署はその統括中央官庁である。

 押勝はまた保良宮の造営を行ったことが発掘調査で確認された。大津市国分付近に、759年造営開始をし、761年に遷都を断行しており、南の平城京に対し、北京と呼ばれた。造営は平城宮の内裏修理中の天皇の仮住まいという目的があったが、光明死去や奈良麻呂事件で工事が遅れた為、実際には旧藤原京に在った小治田宮が当面の仮住まいとなった。

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