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2013年2月11日 (月)

倭国の興亡182: 藤原仲麻呂の台頭と聖武の死

182_0048  仏教伝来以来、最も盛大な法会・大仏開眼供養会が終了した752年以来、孝謙天皇は藤原仲麻呂の邸宅・田村第に帰り、ここを「御在所」遺跡が出土)とした。この時の議政官は左大臣・橘諸兄、右大臣・藤原豊成、大納言・巨勢奈弖麻呂(ナテマロ)、大納言・藤原仲麻呂、中納言・紀麻呂と多治比広足の構成であり、内平城京留守居に任じられた紀・巨勢・多治比を除くと、諸兄、豊成、仲麻呂だけであり、開眼供養会の実質的主導者は仲麻呂であった。
 孝謙が平城宮に戻らなかったのは、東の大極殿や朝堂院の掘立柱から中国風の礎石建物へ大改造中に伴って内裏の改造中であったからでもある。
 この頃、750年遣唐使として大使・藤原清河、副使大伴古麻呂が、また751年には副使・吉備真備が任命されたが、753年帰路、蘇州を出奔した3船とも台風に遇い沖縄に漂着。更に奄美をめざしたものの第1船はベトナムに漂着し、第4船は火災で遅れ、第2船が屋久島経由で薩摩に、第3船が紀伊に漂着した。この時、第2船に乗船していた鑑真が5度の失敗に懲りず、6度目にやっと密航同然で来日を果たした。
181_2  このように、遣唐使派遣、大仏開眼、平城宮中枢部の改造を果たした天平勝宝年間(749~757年)は、藤原仲麻呂の権勢が最も安定した時期であった。(左図田村第発掘遺跡

 754年、聖武の生母・太皇太后宮子が死去し、その頃より聖武の体調が崩れた。あちこちの神宮や御陵で、聖武の延命が祈願され、橘諸兄がうっかり聖武没後のことを口にし、密告されて、翌756年左大臣を辞した
 同年2月、病床の聖武は光明・孝謙と共に難波行幸に出て往路6ヶ寺に詣で、難波宮には1ヶ月半滞在した。難波宮により帰って2週間余り後の756年5月聖武太上天皇は56歳で没した

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