« 節分のお多福と豆まき | トップページ | 立春、梅ほぼ満開 »

2013年2月 3日 (日)

倭国の興亡180: 聖武悲願の東大寺大仏造立

 平城遷都(745年)後の聖武は仏教信仰にのめり込み、残された情熱の全てを傾け、大仏建立と写経事業に邁進してゆく。
 東大寺(盧舎那仏)造立の思想的背景となった経典は華厳経である。大仏建立の場所となった金鐘寺(後の国分寺・金光明寺)で始まった華厳経講説(60巻の華厳経を3年がかりで講説)により、広く普及した。橘諸兄政権のブレーンだった大僧正・玄昉は、華厳経の流行に乗り遅れたため、筑紫観世音寺に左遷され、代って行基が大僧正に任じられ、一切経写経事業が遂行された。

 一方、742年に紫香楽に大仏造立の詔は中断していたが、745年に平城京の国分寺に認定された(742年建立の)金光明寺(後に総国分寺として東大寺へ発展する)での造立が再開された。その工程の大略は次の様に進捗した。
745年8月~746年10月:基壇造成、原型となる土製の塑像を造立。
~747年9月:外形製作後、外形を外し、一定の厚さを削って中型形成後、型持ちで外形を中型に固定。
~749年10月:下部から順に、中型と外形の隙間に熔かした銅を流し入れ、大仏本体を鋳造。
~750年1月:鋳造時の盛土を除去し、鋳上げ大仏を掘り出す。
749年12月~751年6月:頭部の螺髪鋳造をし、取り付ける。
750年1月~755年1月:継ぎ目や「す」の部分を補修し、大仏表面を整形する。
752年3月~?:大仏表面に金メッキを施す。749年10月以降一部併行。
180  大仏造営は国家事業として、国家による労働力や資材調達により進められたが、実際には足りず民衆の協力が必要で、それを助けたのが行基とその集団による勧進活動であった。748年頃には金光明寺は東大寺と呼ばれるようになり、その経営を支えた東大寺初代別当で根本僧正は良弁で、華厳経講説を開始したのも彼である。実質的な造東大寺司長官は佐伯今毛人(イマエミシ)で、設計・立案・鋳造までの技術面の指導者は国中公麻呂(キミマロ)であり、百済からの渡来人の子孫である。761年には東大寺司次官に抜擢されている。
 大仏に使用された原材料は、本体の金銅(青銅)は当初の鋳造で銅は280トン、補修に16トン螺髪6.5トンに達する。銅は長門国の長登銅山から供給された。金メッキに用いた金は60㎏にもおよび、下野や陸奥で新たな金が産出して賄われたという。

|

« 節分のお多福と豆まき | トップページ | 立春、梅ほぼ満開 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/56686634

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡180: 聖武悲願の東大寺大仏造立:

« 節分のお多福と豆まき | トップページ | 立春、梅ほぼ満開 »