« 世の中、玉虫色 | トップページ | サクラが咲いた »

2013年2月27日 (水)

倭国の興亡186: 皇権分裂と押勝の挫折

 762年5月、保良宮未完成のまま、淳仁天皇と孝謙太上天皇は平城遷都した。淳仁は押勝に準備された中宮院(内裏)に戻ったものの、孝謙は平城宮に入らず、母光明子ゆかりの法華寺に入り、住まいとした。6月、孝謙は5位以上の官人を朝堂に呼び、「今の帝は、私に身に覚えのないことをいう。別に住めば云われないだろう。向後政務については日常祭祀など小事は今の帝が行い、賞罰など国家の大事は私が行う」との詔を出した。皇権の分離宣言である。
 淳仁は孝謙に遠慮深く振る舞い、対立は考えられないが、特定の事を婉曲に非難したことを指している。それは宮中の看病禅師・弓削(ユゲ)連道鏡に関することで、761年保良宮に行幸してから、時折孝謙の看病に侍り、次第に寵愛されるようになった。これに対し押勝からも言われて淳仁が事あるごとに孝謙に苦言を呈したことから、二人が不仲になったと云われ、前記皇権分離となった由。(:孝謙女帝)
 天皇大権を象徴する鈴印は淳仁にあり、律令制の正当手続きは押勝・淳仁側にあるものの、一触即発の状態が続いた。(鈴印(レイイン):駅馬利用資格証明の駅鈴内印(天皇御璽)及び外印(太政官印のこと)
186  一方恵美押勝専制に対する反発は既に頂点に達し、763年には藤原宿奈麻呂等による押勝暗殺が企てられたが、これも密告により未然に防がれ、首謀者等は大宰府に左遷された。763年から翌年にかけ、孝謙側も造東大寺司長官に吉備真備が、小僧都に道鏡が任じられた。対して押勝側も、衛府の軍隊長官や関国守に身内子弟や子飼いを充て、軍事力強化を図った。又、軍粮確保のため諸国の不動倉の管理を中央の管理下に移した。
 768年8月には近畿諸国に造地使が派遣され、灌漑用池の掘削準備をさせたが、これは兵力徴発の準備であった。又9月に大師(太政大臣)押勝は都督兵事使となり、畿内要衝の軍政を掌握した。そして、淳仁の兄・船親王と謀って、孝謙の咎を書面告発する準備を進めた。軍事力を背景に孝謙失脚の画策であり、軍事クーデターの準備だった。
 この動きは孝謙側に漏れ、淳仁から鈴印を奪われ、鈴印争奪の戦闘が始まった。場所は法華寺と中宮院の間で宮内道路近傍である。戦闘結果、鈴印が孝謙に届けられ、押勝は謀反のレッテルを貼られた。大師を解任、位階を剥奪され、土地、資財すべて没収され、藤原姓も除く処分が下された。

|

« 世の中、玉虫色 | トップページ | サクラが咲いた »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/56850190

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡186: 皇権分裂と押勝の挫折:

« 世の中、玉虫色 | トップページ | サクラが咲いた »