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2013年2月

2013年2月28日 (木)

サクラが咲いた

 上図桜の花である。が、ソメイヨシノではなく、実がなるセイヨウミザクラである。
Photo  先週22日(金)に通りがかった時、であった中図)ので、そろそろ開き始めたかと昨日見に来ると、この枝は下図の通りほぼ満開状態にになっていた。この木は地上50cm位から枝分かれし、手前が写真の如く満開で、向こう側はまだ蕾なのだ。サクランボは、接木で育てるので、手前は多分接ぎ木部分なのであろう。昨年は花の後沢山のサクランボがなった。だから写真の如く盗難除けのネットが張ってある。
222  サクランボは桜桃或いは西洋実桜とも呼ばれ、「サクラの実」と言う意味の「サクラの坊」が転じてサクランボウ→サクランボになった由。尚この花の咲いている部分は多分早生種の接木であろう。
 ソメイヨシノが日本に渡来したのは明治初期、ドイツ人・ガルトネルにより、北海道に伝えられたのが始まりで、それが品種改良されたものである。(中図と下図は同じ部分。尚小豆大の小さな実がなるのは実桜でなく花桜)
Img227  今は“花”は「桜」であるが、奈良時代までは“花”といえば「梅」だったそうで、古今和歌集に「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁)とあるがこれは梅の花。平安時代には花は桜となって「ひさかたの光のぞけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらん」(紀友則)と詠われた花は桜である。 

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2013年2月27日 (水)

倭国の興亡186: 皇権分裂と押勝の挫折

 762年5月、保良宮未完成のまま、淳仁天皇と孝謙太上天皇は平城遷都した。淳仁は押勝に準備された中宮院(内裏)に戻ったものの、孝謙は平城宮に入らず、母光明子ゆかりの法華寺に入り、住まいとした。6月、孝謙は5位以上の官人を朝堂に呼び、「今の帝は、私に身に覚えのないことをいう。別に住めば云われないだろう。向後政務については日常祭祀など小事は今の帝が行い、賞罰など国家の大事は私が行う」との詔を出した。皇権の分離宣言である。
 淳仁は孝謙に遠慮深く振る舞い、対立は考えられないが、特定の事を婉曲に非難したことを指している。それは宮中の看病禅師・弓削(ユゲ)連道鏡に関することで、761年保良宮に行幸してから、時折孝謙の看病に侍り、次第に寵愛されるようになった。これに対し押勝からも言われて淳仁が事あるごとに孝謙に苦言を呈したことから、二人が不仲になったと云われ、前記皇権分離となった由。(:孝謙女帝)
 天皇大権を象徴する鈴印は淳仁にあり、律令制の正当手続きは押勝・淳仁側にあるものの、一触即発の状態が続いた。(鈴印(レイイン):駅馬利用資格証明の駅鈴内印(天皇御璽)及び外印(太政官印のこと)
186  一方恵美押勝専制に対する反発は既に頂点に達し、763年には藤原宿奈麻呂等による押勝暗殺が企てられたが、これも密告により未然に防がれ、首謀者等は大宰府に左遷された。763年から翌年にかけ、孝謙側も造東大寺司長官に吉備真備が、小僧都に道鏡が任じられた。対して押勝側も、衛府の軍隊長官や関国守に身内子弟や子飼いを充て、軍事力強化を図った。又、軍粮確保のため諸国の不動倉の管理を中央の管理下に移した。
 768年8月には近畿諸国に造地使が派遣され、灌漑用池の掘削準備をさせたが、これは兵力徴発の準備であった。又9月に大師(太政大臣)押勝は都督兵事使となり、畿内要衝の軍政を掌握した。そして、淳仁の兄・船親王と謀って、孝謙の咎を書面告発する準備を進めた。軍事力を背景に孝謙失脚の画策であり、軍事クーデターの準備だった。
 この動きは孝謙側に漏れ、淳仁から鈴印を奪われ、鈴印争奪の戦闘が始まった。場所は法華寺と中宮院の間で宮内道路近傍である。戦闘結果、鈴印が孝謙に届けられ、押勝は謀反のレッテルを貼られた。大師を解任、位階を剥奪され、土地、資財すべて没収され、藤原姓も除く処分が下された。

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2013年2月26日 (火)

世の中、玉虫色

 玉虫色に輝いて美しいと言っているのではない。見る方向により色んな色に見えるような約束事で、この世は廻っていると実感している次第。そうです、TPPに関する安倍さんとオバマ大統領の合意の共同声明も玉虫色に輝いています。しかし、日中間、日韓間、日ロ間の諸問題、アラブの問題、或は原発の最終廃棄物の問題、等々、はっきり決められず未解決のまま動いている事象が余りにも多すぎる
 しかし、此れを人間の知恵だと“称賛”する向きもあるが、それは違っていないか。全くの“悪知恵”に過ぎないのでないのか。と考えていたら、なんだか急に、人間が小さい生き物に思えてきた。
 悲観的な気持ちで歩いていたが、やはり春ですねー道端の花々が美しく咲いている
Photo  オキザリス・バーシーカラー(O.versicolor)。少し荒れたままの庭にプランターごと放置されているが、花は負けずに咲いたようだ。カタバミ科特有のクローバーに似た葉ではなく、細長いのが特徴。可憐な花だが強健でこのように放任されても増えて行くので、浅底の鉢植えが良いとか。
Photo_2  水仙ペーパーホワイト(PaperWhite Narcissus)。別名フユザキスイセン、或はナルキスス・パピラケウム日本スイセンと同じ仲間だが、違うのは真ん中の副冠が黄色にでなく、このように白いのがペーパーホワイトである。これは道端の草叢に放置されたものが咲いていた。

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2013年2月24日 (日)

ヒトは笑う

 動物で笑うのは「ヒト」だけである。と、京大教授・山際寿一氏が、毎日の論説「時代の風」に記しておられる。は笑う代わりに尾を振るし、もゴロゴロと喉を鳴らすが、無表情だ。人に近いサルは夜行性だったのが昼間行動するようになってから、歯をむき出し「笑い」のような表情を出すようになり、ゴリラやチンパンジーなど人に近い類人猿は、はっきりと笑いの表情となり、グコグコとくぐもった笑い声を出すという。
 人間の笑いは、このサルの笑いに由来し、微笑は相手に敵意が無いを伝える。そして、ヒトの笑いはサル達の遊びの時の笑いに由来しており、楽しさを共有しようとの意思表示で、相手からの笑いを期待し笑いかけるのだ『笑う門に福来たる』笑いは人間の証であり、人々の和の最良の手段である、と。
 愈々春めいて、自ずと歓び、微笑が湧いて来そうだ。そんな時、薔薇が似合いそうだ
Photo  今日はミニバラ(薔薇)。今風の庭先に置いてあった鉢植えのニミバラである。大輪の花を咲かせるバラが庭にあるのもいいが、場所を取ったり、手入れ時のが痛いなど各種要因が、若い人達に敬遠される所以か。最近は写真の様に、ミニバラを鉢植えし、屋内に置いて昼間だけ日に当てる為に庭先に出している家も多い。(夜間、盗まれることも多いからでもある)。
Photo_2   ミニバラの鉢植えは手がかからずいいのかと思ったら、水遣りは勿論、整枝や、肥料除虫など、凝っている人はそれなり手をかけているようだ。
 しかし、最近は殆ど一年中花が咲くようになり、花の色も実に多種あるので、凝りだすと多分嵌りこんでしまいそうだ

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2013年2月23日 (土)

倭国の興亡185: 東北版図拡大と新羅征討計画

185  藤原恵美押勝による東北経営は陸奥国・桃生城、出羽国・雄勝城に代表される。両城造営方針は757年の勅に在り、760年1月の両城完成に褒賞された。他にこの頃、出羽柵は秋田城に造りかえられ、多賀城も大規模な改作があった。これらを一括主導したのは押勝・朝狩親子で、これを顕彰するため、762年多賀城碑が造立された。
 これら東北経営の強化策は一応成功し、東北情勢の安定38年戦争に突入する774年まで続く。
  一方この頃、押勝政権は新羅征討を計画していた。その頃の対新羅関係は、752年の大仏開眼会の際、王子・金泰廉の来日はあったが、朝貢を求める日本と対等外交を求める駆け引きでしっくりしてない。
185_3   しかし、これ以降の新羅使は貿易使節としての性格を持ち、大宰府における大規模な貿易活動が生まれている。正倉院の「買新羅物解」という文書に当時の購入された新羅の物品や値段のリストがある。しかし、760年来日の新羅使は身分が低いと追い返している。(下図:当時もたらされた正倉院蔵、平螺鈿鏡)。
 押勝は対新羅強硬策を打ち出すため、先ず758年遣渤海大使・小野寺守を派遣し、同年帰国した。その時の情報で、唐の案禄山の乱勃発を知る。755年異民族出身の安禄山が玄宗皇帝に反旗を翻したものであったが、押勝政権は全て大宰府任せであった。当時大弐・吉備真備という碩学が大宰府にいたせいもある。又、この危機感を逆手にとって積極外交に転じ、政権安定に利用した節もある。
 新羅征討計画は759年に、3年後に500隻の船築造する計画。761年美濃・武蔵の少年20人ずつに新羅語を習得させ、東海・南海・西海道に節度使設置762年筑前・香椎廟ほか全国の神社に戦勝祈願の奉幣。しかし、結局新羅出兵はされず、762年の渤海使のもたらした情報は、安禄山の乱の終末と玄宗の死であった。
 こうして、唐国内の情勢変化や、渤海と唐との関係から、渤海の日本との連携も不要となり、これら東アジアの情勢変化は、新羅征討を正当化する理由を失わせた

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2013年2月22日 (金)

春、小鳥も欣喜雀躍

 昨日、森喜朗元首相は、プーチン露・大統領とクレムリンにて会談。日露間の諸問題、特に北方領土問題等について会談した。又安倍首相もオバマ米・大統領と会談すべく米国へ飛び立っていった。これは今後の日米間の諸問題のほか、日中間の問題、TPP参加問題等々話し合われる予定。
 安倍首相は就任後積極的に外交面の努力もしているが、世界での国際会議における日本の発言力の弱さがよく指摘される善意を重んじ、信義礼節を尊ぶ日本人は外交に於いて手練手管を駆使するようなことが下手なようだ。面従腹背など当然であると謂わんばかりの外交が行われる国際舞台にも負けずに、世界中を飛び回って欲しいものだ。
 暖かくなり、小鳥たちも飛び廻っている。可愛いが多分命を懸けての飛翔なのだ
Photo  ムクドリ(椋鳥)。雀と鳩の中間位の大きさ。渡り鳥ではなく留鳥だそうだが、毎年今頃に、近くの公園に群れを成して飛来し、草叢や地面の餌を啄ばんでいる。雛が巣立って親子集まって群れをなし、一ヶ所にネグラを形成するそうだ。鳴き声がギャーギャーとうるさいと嫌う人も居るようだが、これを見ると春だ!と思う。
Photo_2  メジロ(目白)。鶯と勘違いされやすいが、薄黄緑色で、目の回りに白い輪があり、雀より小さいのが特徴。カメラを向けても逃げないが、一時も停止せず、ずっと動き回りながら小虫を食べたり花の蜜を吸う。従ってピンボケばかり。これは枝の下にぶら下がるように上向いて餌を啄んでいるところ。(真ん中にいます)

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2013年2月20日 (水)

進まぬ復旧工事

 東日本大震災からほぼ2年が経過する。気になるのはあらゆる面で1日も早い復旧が望まれるのに、遅々として進まぬ復興である。中でも経済活動のベースとなる道路や橋梁などの復旧開通であろうが、工事の入札業者が集まらぬという。原因は生コン、砂利、アスファルト合材の資材の高騰と、人件費の高騰により、入札すれば赤字になるからである。 国交省や地方自治体も基準工事費や人件費の見直しをしているが、追いつかないという。
 この様な環境の中で、阿部内閣は補正予算で10.5兆円の公共投資を打ち出したが、これが逆に諸経費の高騰を生んでいる様子だ。被災者の生活などの福祉面も充分でなく、苦しい生活が続いている。何とか「超特別措置法」ででも救ってやれないのか
 そんな中、3年目の春が確実にやってきた。草花も春の花を咲かし始めている。
Photo  クロッカス(Crocus)。公園の片隅の花壇に残っていた球根が芽を吹いたものである。クロッカスはクロッカス属の総称で、晩秋に咲くサフランに対して、春サフランとか、花サフランとも呼ばれる。よく水栽培され、室内で楽しまれる。曇りの日や夜気温低下すると、花を閉じる。又球根は茎が縮まり肥大したもので、球茎と云うそうだ。
Img  シダレウメ(枝垂れ梅)。普通の梅よりやや遅く今頃が見頃となった。別名をムメというが、学名のPrunus mume から来ているらしい。名古屋の農業センターの枝垂れ梅は12品種700本が植わっていて、梅園として国内有数の規模であるという。

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2013年2月19日 (火)

倭国の興亡183: 橘奈良麻呂の乱

 聖武が没した時、「遺詔」の形で孝謙天皇の後嗣を新田部親王の子・道祖(フナド)に決定した。(令では天皇の皇子、兄弟を『親王』、親王の子を『王』と呼ぶ)。しかし、その後1年経たない757年3月には道祖王の言動よからず廃された。そこで、4月4日、孝謙は群臣に図り、仲麻呂の意見を聞いたうえで、新田部親王の弟・舎人親王の一番若い大炊王が悪い風評もなくよいと思うと重臣たちに諮られ、大炊王を皇太子に決定した。この会議の筋書きは仲麻呂と孝謙の間で予め用意されていたものだった。
 皇太子交替から間もない757年5月、聖武の一周忌斎会の終了を待っていたかのように大きな政変が始まる。聖武なき後、叔母である光明皇太后をバックに発言力を強める藤原仲麻呂を討つべく、757年7月に起こった橘奈良麻呂の変である。
 政治体制も、皇位継続も藤原一族即ち不比等の娘・光明皇太后とその娘・孝謙上皇が実権を握り、その家政機関である紫微中台が行政機関の中枢となりその長官に藤原仲麻呂が就任していた。皇室と行政機関をすべて掌握していた訳で、すべてを私していると憤激したのが橘奈良麻呂であった。
183  以前より、奈良麻呂は打倒藤原を何かと画策してきたが、この時にいたって怒りの頂点に至った。7月2日打ち合わせ通り、黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人を中心とした精兵400人で田村台を囲み、古麻呂が不破の関を掌握すべく兵を挙げた
 一方、仲麻呂たちは不穏な動きを察知しており、6月には戒厳令を敷いており、6月末には密告があって、事前に陰謀は発覚した。7月2日、孝謙が自生せよとの詔を出したが応じず。翌3日、仲麻呂に密告があり、孝謙に奏上。即刻小野東人を拘禁し、道祖王邸を包囲。その後前記の主な謀反人を呼び出し拘束説諭した。しかし、4日事態は急転し、厳しい取り調べが行われ、拷問を受けて前記首謀者は杖下で獄死、他の主だったものは佐渡や土佐への流罪に処された。総数443人に達したそうである。(:光明子の親譲りの持念仏
 奈良麻呂クーデター未遂事件後、一気に進んだ仲麻呂専制支配体制の総仕上げが、大炊王の即位(淳仁天皇)である。

〔お詫び〕
前回、この183回を飛ばし、184回を先にアップロードしております。後先、逆順になっております事、お詫び申し上げます

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2013年2月18日 (月)

花の香流る

 昨日は晴れていい日和となったので、満開に近い梅の花を観賞しながらブラブラ歩きをした。今頃の梅の花はいい香りを放っており、メジロや鶯が寄ってきている。急いでカメラをむけると途端逃げられてしまい、なかなか撮れない。
 仕方なく草花を撮りながら帰ってきた。
Photo  ゴールデンクラッカー(Golden Cracker)。花の大きさは段違いではあるが、キク科のユリオプスデージと同じ仲間。鉢植えや花壇によく植わっているが、これは生垣として植えられ一斉に咲いていたもの。放っておくと4m位に伸びるそうで、切戻す必要があるとのことであった。
Photo_2  ノゲシ(野芥子)。別名ハルノノゲシ又はケシアザミケシと全くの別種である。1月頃から、道端や荒地にもよく咲いており、秋口まで咲く強い草である。茎や葉が大きく伸びて、余り美しいと云い難いが、花は結構可愛い

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2013年2月16日 (土)

隕石爆発

 昨日、ロシア・ウラル地方に落下した隕石は約10㌧と推定されており、直径10m位とも想定されている。この巨大隕石が大気圏に突入すると摩擦で火を吹いているのかと思ったら、これは前方の気体が「断熱圧縮」により、高温となり隕石が溶融したのだという。
 又、建物の窓ガラスが沢山割れていたが隕石破片によるものではなく、これは音速の40倍といわれる落下速度のせいで空気中に発生する衝撃波によるものだそうだ。
 日常的には想像しえない物理現象に大きな被害を受け、1000人が怪我したという。落下地点が都市圏でなかった点がせめてもの救いだった。人の力の及ばざる現象は、神の戒めか、悪魔の奢りか、まだまだ人は自然の力には及ばない
 その自然がいよいよ春を運んできてくれた。春の花2点。
Photo  ナノハナ(菜の花)。菜の花はかなり前から咲き始めていたが、最近漸く満開に近い状態となって来た。九州では当初、鹿児島に始まった「菜の花マラソン」が最近ではあちこちで開催されだしたようで、戸外活動のはしりとなる花でもある。
Photo_2  ジンチョウゲ(沈丁花)。春分前後に満開となり、辺りに香気を漂わすが、今頃花が綻び始めているの見て珍しいので撮ったもの。香りが沈香や丁字に似ているところから付いた名だが、臭い消しにご不浄付近に植えられるという不運な木である。

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2013年2月15日 (金)

倭国の興亡184: 淳仁即位と仲麻呂の栄光

 758年8月、孝謙は皇太子大炊王に譲位、大極殿で即位し淳仁天皇が誕生した。同日、孝謙に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明に「天平応真仁正皇太后」の尊号を贈った。更には役所名を中国風に改めて、藤原仲麻呂には功績にふさわしい名を諮問し、藤原恵美朝臣押勝の名が与えられ(以降仲麻呂押勝と表記)、鑑真には「大和上」の称号を贈っている。(下図鑑真坐像
184  一方、押勝には、本来律令国家の権限である功封・功田とともに鑄銭(造貨)と出挙(銭貨や稲の貸付)の権利を与えるという異例の措置が取られ、恵実家の私印使用も許可している。

 押勝の専制体制の総仕上げの時期、淳仁新天皇の位置づけは非常に低い。淳仁の名は明治での追贈であり、のち天皇を廃され淡路に流され「(淡路)廃帝」と呼ばれ、日々の記録でも単に「帝」とされた。
 傀儡という程の淳仁即位に対し、押勝は自ら大保に任じ、760年には大師となり。大宝以来初の大政大臣任官となった。しかも孝謙太上天皇の勅による。
184_4  この時期、押勝政権は二つの特徴的な経済策を採った。一つは760年、新銭の万年通宝を和銅開珎以来52年ぶりに発行した。この通貨1枚は和同開珎10枚に相当するとされたが、次第に同等となった。下落した銭貨価値の回復と贋金対策だった。(写真左が万年通宝、右は金貨・開基勝宝)
 もう一つは、759年平準署と常平倉の設置である。常平倉は諸国の非常用備蓄稲(公廨(クゲ))の一部を割いて京に置き、物価高騰時に放出する物価安定策と運脚の疲弊を救う制度で、平準署はその統括中央官庁である。

 押勝はまた保良宮の造営を行ったことが発掘調査で確認された。大津市国分付近に、759年造営開始をし、761年に遷都を断行しており、南の平城京に対し、北京と呼ばれた。造営は平城宮の内裏修理中の天皇の仮住まいという目的があったが、光明死去や奈良麻呂事件で工事が遅れた為、実際には旧藤原京に在った小治田宮が当面の仮住まいとなった。

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2013年2月14日 (木)

気になる原発被曝

 福島県での子供の甲状腺検査で新たに2人が甲状腺がんと診断され、昨年判明者と合わせ3人となった。又、甲状腺がんの疑いのある人が7人となった。前記の3名の手術は終り疑いの7人は細胞検査で8割の確率で甲状腺がんの可能性がある、と新聞が報じている。
 尤も、この数値は通常の発生率(100万人に1人)を大きく上回って居ると言うものの、従来、今回のような精度での疫学調査は前例がなく、又、チェルノブイリでは最短事故後4年後に発症が増加している経過から、今回福島原発事故との因果関係は考えにくい(県立医大教授・鈴木真一氏及び北海道がんセンター西尾正道院長)とも云われているが、気になるところではある。
 さて、厳寒期が過ぎて柔らかい春の日差しの中、春の草花が咲き始めた
Photo  クリスマスローズ。欧州原産で明治初期に渡来。別名「雪起し」とも云われ、雪ノ下から雪を持ち上げて咲くところからの名前。通常2月節分から3月頃が開花期だが、クリスマスごろ開花の種もあり、上記名がある。花は八重もあり、園芸種はいろんな色がある。ところでこの花、何故か下向いて開花することが多い。
Photo_2  シクラメン。秋から翌春までと花期は長く、今は大変ポピュラーな花となった。和名は「豚の饅頭」「篝火草(カガリビバナ)の2通りある。前者は植物学者・大久保三郎英名sow bread(雌豚のパン)即ちこの球根が豚の餌になるところから命名したもので、後者は同・牧野富太郎がある貴婦人がこの花を「かがり火のようだ」と言ったのを聞いて、命名したという。

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2013年2月12日 (火)

梅一輪の暖かさ

 『梅一輪一輪ほどのあたたかさ』江戸時代の著名俳人・服部嵐雪の句で、知らない人はないであろうこの句、毎日新聞の「季語刻々」と言う俳句の欄を書いておられる俳人・坪内稔典氏によると、この句は2通りの解釈があるという。一つは冬の句で「いまだ、梅が一輪咲いている程度のあたたかさ(寒さだ)」と言うのと、今一つは春の句で「梅が一輪、一輪と咲きだし、少しずつ暖かくなった。もう春だ」という解釈である。
 尤も今でも賀状には「春」と言う言葉を使い、正月以降は「春と言うことが多いからどちらでもいいのであるが、ここんところ晴れる日が多く最高気温10℃にもなるが、朝晩は随分冷え込みが強く、未だ春遠しという感が強い
 そんな中を歩いていて春の七草が花をつけているので、今日はそれを紹介。
Photo  コハコベ(小繁縷)。春の七草の一つ「はこべら」のこと。はこべには多くの種類があり、これはコハコベであろう。花径は5-10mm以下位のちっさな花である。昔、はびこる草故、「はびこりめむら(蔓延芽叢)」と言ったのが転じたという説がある。小さくて可憐な花だが、密集はないので、つい見過ごしそうな花である。
Photo_2  ナズナ(薺)。これも七草の一つ。別名ぺんぺん草。荒地や、道端などでも生えている。雑草の代名詞みたいな草であり、花も美しくないが、寒くても枯れず、冬の貴重な野菜だった事から七草いりしているようだ。夏には枯れるから、夏無→薺となったという説もある。

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2013年2月11日 (月)

倭国の興亡182: 藤原仲麻呂の台頭と聖武の死

182_0048  仏教伝来以来、最も盛大な法会・大仏開眼供養会が終了した752年以来、孝謙天皇は藤原仲麻呂の邸宅・田村第に帰り、ここを「御在所」遺跡が出土)とした。この時の議政官は左大臣・橘諸兄、右大臣・藤原豊成、大納言・巨勢奈弖麻呂(ナテマロ)、大納言・藤原仲麻呂、中納言・紀麻呂と多治比広足の構成であり、内平城京留守居に任じられた紀・巨勢・多治比を除くと、諸兄、豊成、仲麻呂だけであり、開眼供養会の実質的主導者は仲麻呂であった。
 孝謙が平城宮に戻らなかったのは、東の大極殿や朝堂院の掘立柱から中国風の礎石建物へ大改造中に伴って内裏の改造中であったからでもある。
 この頃、750年遣唐使として大使・藤原清河、副使大伴古麻呂が、また751年には副使・吉備真備が任命されたが、753年帰路、蘇州を出奔した3船とも台風に遇い沖縄に漂着。更に奄美をめざしたものの第1船はベトナムに漂着し、第4船は火災で遅れ、第2船が屋久島経由で薩摩に、第3船が紀伊に漂着した。この時、第2船に乗船していた鑑真が5度の失敗に懲りず、6度目にやっと密航同然で来日を果たした。
181_2  このように、遣唐使派遣、大仏開眼、平城宮中枢部の改造を果たした天平勝宝年間(749~757年)は、藤原仲麻呂の権勢が最も安定した時期であった。(左図田村第発掘遺跡

 754年、聖武の生母・太皇太后宮子が死去し、その頃より聖武の体調が崩れた。あちこちの神宮や御陵で、聖武の延命が祈願され、橘諸兄がうっかり聖武没後のことを口にし、密告されて、翌756年左大臣を辞した
 同年2月、病床の聖武は光明・孝謙と共に難波行幸に出て往路6ヶ寺に詣で、難波宮には1ヶ月半滞在した。難波宮により帰って2週間余り後の756年5月聖武太上天皇は56歳で没した

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2013年2月10日 (日)

春めいて

 立春以降、一昨日は最高気温4℃だったが、昨日は8℃、今日は10℃の予想で、日毎に暖かくなり、午後のウオーキングでは、小さな草花を撮ったり、民家の庭などの花を見ながら歩いていると、もうすっかり春気分。梅もかなり満開に近くなり、枝垂れ梅の蕾も膨らみ始めた。
 その中の今日は2点を掲載。
Photo  花かんざし。和名で日本在来種かと思ったが、ペーパー・デイジーと言う名の外来種。10日ほど前に、歩いていて民家の庭で蕾を見つけたのを思いだし、ウオーキング中廻ってみるとご覧の様に満開近く咲いていた。この花、花弁に見えるのは花苞」で、真中の黄色のが筒状花である。2cm大の小さな花が可憐で美しい。
Photo_2  アリッサム。スイートアリッサムとも言い、和名はニワナズナ。まだ蕾もあるが、3月から6月にかけ沢山の花をつける。同じ木で9-11月に再度咲くこともある。草丈15ー30cmなので、よく庭のグランドカバーとして植えられている。今頃は、花屋さんでは小さなポットに入れた花をつけた苗が売られている。

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2013年2月 8日 (金)

今冬一番の寒波襲来

 昨日の天気予報通り、今朝は随分冷え込んだ。今は朝から雪が降り続いている。福岡の予報では最低ー2℃、最高4℃。今日は寒気団南下で全国的に冷え込み、大阪最高4℃、名古屋最高5℃と寒い予報。東京は8℃と列島で西南諸島を除けば最高気温となる。こんなことが2、3日続けば水道管破裂など続発しかねない。
 そんな中、円安が目論見通り進行しており、景気回復が見込まれると経済界は喜んでいるようだが、ガソリンと共に灯油は値上がりし、原材料を輸入している零細企業や、食材屋さん達は早くも悲鳴を上げており、弱者が困る局面になりつつある。怨嗟の声が高まる前に政府は何らかの手を打っておくべきだろう。
 久しぶりに晴れ間を歩いたが、園芸品以外あまり花はなく、目に付いたもの2点。
Photo  カランコエの一種? (でないかもしれない)。花が咲き始めたばかりのもので、民家の門脇の花壇に在ったもの。カランコエの種類は多くて、色んな葉や花があり、カランコエの特徴は一声では言いにくい。マダガスカル島原産のベンケイソウ科の多肉植物全般を指す。花の色も形も種々ある。短日条件で11月頃花芽が付き、冬~春まで花が咲く。10℃以下が続くときは屋外では無理のようだ。
Photo_2  ゼラニュウム観葉植物。ゲンノショウコと同じフウロウソウ科フロウソウ属の植物で、モンテンジクアオイ(紋天竺葵)の事を一般的にゼラニユウムと言っている由。花も咲くがこれは観葉用で、花を観賞する為の園芸種もあり、ハナゼラニュウムと云うそうだ。これも種類は多く南アフリカ、シリア、オーストラリアに280種が分布しているそうだ。

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2013年2月 7日 (木)

倭国の興亡181: 聖武出家と大仏開眼

 743年の元日朝賀の儀を最後に、体調不良の聖武は政務への関心を失い、仏教信仰に埋没し、大仏造立の東大寺への行幸を繰り返す。
 747年時点の議政官は橘諸兄が左大臣(743年)で、参議に藤原豊成の2歳年下の弟・藤原仲麻呂と紀麻呂が新たに補任された。
 748年には法華経千部の書写が新たに開始されたが、その完成を見ず元正太上天皇が死す。結果、大仏造立の華厳経書写は中断した。
181  更に大仏造立への痛手は、749年菩薩と仰がれた行基が死去した事である。大仏造営の工事を推し進めるなど大きな役割を果たし、完成時には開眼師を務める立場にあったのである。(図唐招提寺の行基像
 749年聖武天皇は、大僧正行基から菩薩戒を受けて出家した。元正生存中は聖武の譲位や出家は難しかったが、元正死去に伴い、皇太子安倍内親王の即位の動きも加速された。実質的に天皇不在の状況の中、国中狂喜させたのは陸奥国での金の発見である。(大仏鍍金に多量の金を要した)。

 749年、阿部内親王が即位し孝謙天皇となった。即位、参議・藤原仲麻呂大納言になった。又首班・橘諸兄の子息・橘奈良麻呂も参議に補任された。
 孝謙天皇即位後、紫備中台(皇后宮職の改組)が創設され、光明皇后が皇太后になるのに対応した。この長官は大納言・藤原仲麻呂が就任し、更に中衛大将をも兼任したことで、権力を掌握していったのである。
181_2  751年孝謙、東大寺行幸。同10月聖武太上天皇不予(病気)。752年4月9日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺に行幸し、大仏開眼供養会が挙行された。執行する僧侶千人余り、僧尼、沙弥(少年僧、未出家僧)など計1万人が集まり、開眼用の筆に繋がる200mに及ぶ下図藍染の絹糸の縄、これを握ると開眼に加わったことになる)が結わえられた。この後華厳経講説があり、その後は歌舞等による祝賀行事が盛大に執り行われたのである。大仏建立は律令国家の理念の実現であり、その到達点の象徴が大仏開眼会であった。

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2013年2月 6日 (水)

煙霧の春霞

 当地では、明日から寒気が強まり、明後日からは最高5~7℃の寒い日が1週間ほど続くとの予報である。昨日までは3月中旬の気温とかで、暖かい日が続いたが、それと共に随分霞んだ。ところがこれ春霞ではなく、中国飛来の煙霧だという。
 毎日・「余禄」によると、中国では今の季節の霞は(バイ)」といい、ゴビ砂漠(バダインジャラン砂漠含む)等からの黄砂が飛んできて、霞むのが普通だった。日本ではこれを「ツチフル」と読んで、春の季語だったという。又「霾晦(バイカイ)」は「よなぐもり」といい、この黄砂による煙霧による、昼なお暗いという状態だったそうだ。
 昔はこの様に自然の一変化だったのであるが、最近の霞・煙霧は中国の水利問題(工業化による水不足)や石炭による暖房増加、工場の排気ガスの増加等により、人工的な汚染物質の増加による「霞」が増加し、それが諸に、日本に飛来しているのである。結果、硫黄酸化物やPM2.5(2.5ミクロンの超微粒子、花粉の1/300の大きさ)等の健康被害物質が急激に増加したのである。これは中国本土は勿論、朝鮮半島、日本列島にとって、大きな問題である。
Photo  このような気象変化により、植物にも絶滅種が出始めたが、一方園芸種は、近来のバイオ技術で新種の花が急増している。今日の花は先日掲載したメラコイデスと同じプリムラの1種で、ジュリアンという。
 勿論サクラソウ科サクラソウ属のPrimula juliae hyrid でジュリアン(バラ咲きジュリアンと呼ばれる)である。
Photo_2  これは民家の門脇の小さな花壇に植えられていたもので、このような八重咲が最近人気があるという。耐寒性が強いので、冬の花壇に適しており人気あるが、やはり日当たりを好む由。花期は12月~翌4月

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2013年2月 4日 (月)

立春、梅ほぼ満開

 今日は立春、俳句の世界では、今日から5月5日立夏の前日までが春。故に季語は冬のものは使えない。例えばこれからの雪は「春の雪」の如くである。この様な文芸が発達したのも、四季の変化がはっきりし、その時々での生活すべてが一変する故であろう。
 日常生活の変化に伴い、当然人間の気持ちも変化する。日々更新の気持ちで、常に”新世界”での生活を実現しているのでないか。この結果、日本人は過ぎ去ったことにあまり執着しない気質があるのでないかとさえ思う。最近では「原発」の問題である。安倍内閣は民主政権が掲げた”2030年に原発0”という基本方針をあいまいなものにしようとしており、世論調査は原発0」見直しを支持するが56%になったという。
 事故直後の菅政権時での国民の気持ちとはずいぶん乖離してしまった。
Photo  とは言え、今日から春だ、すべてが新しく芽吹くときである。明日への希望を大きく膨らませる時期だ。梅もほぼ満開となったので、今日は梅を載せよう。
 紅梅だが真紅ではなくやや桃色の八重。白梅で昔からある種のものである
「花」といえば今は「サクラ」だが、これは平安時代以降の話で、奈良時代は「花」といえば梅だったという。
Photo_3  花の名所
『梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波』と唄われたように、兵庫県の岡本梅林(神戸市東灘区岡本)が有名。梅の品種は大きく、野梅系、紅梅系、豊後系の3つに分かれ、梅の実のなるのは豊後系で100種以上もあるそうだ。
 
「塩梅」という言葉があるが、梅は各種有機酸を含み「すっぱい」のを、塩加減をうまくして、余り酸っぱくない梅漬けを造ることから来たものである。

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2013年2月 3日 (日)

倭国の興亡180: 聖武悲願の東大寺大仏造立

 平城遷都(745年)後の聖武は仏教信仰にのめり込み、残された情熱の全てを傾け、大仏建立と写経事業に邁進してゆく。
 東大寺(盧舎那仏)造立の思想的背景となった経典は華厳経である。大仏建立の場所となった金鐘寺(後の国分寺・金光明寺)で始まった華厳経講説(60巻の華厳経を3年がかりで講説)により、広く普及した。橘諸兄政権のブレーンだった大僧正・玄昉は、華厳経の流行に乗り遅れたため、筑紫観世音寺に左遷され、代って行基が大僧正に任じられ、一切経写経事業が遂行された。

 一方、742年に紫香楽に大仏造立の詔は中断していたが、745年に平城京の国分寺に認定された(742年建立の)金光明寺(後に総国分寺として東大寺へ発展する)での造立が再開された。その工程の大略は次の様に進捗した。
745年8月~746年10月:基壇造成、原型となる土製の塑像を造立。
~747年9月:外形製作後、外形を外し、一定の厚さを削って中型形成後、型持ちで外形を中型に固定。
~749年10月:下部から順に、中型と外形の隙間に熔かした銅を流し入れ、大仏本体を鋳造。
~750年1月:鋳造時の盛土を除去し、鋳上げ大仏を掘り出す。
749年12月~751年6月:頭部の螺髪鋳造をし、取り付ける。
750年1月~755年1月:継ぎ目や「す」の部分を補修し、大仏表面を整形する。
752年3月~?:大仏表面に金メッキを施す。749年10月以降一部併行。
180  大仏造営は国家事業として、国家による労働力や資材調達により進められたが、実際には足りず民衆の協力が必要で、それを助けたのが行基とその集団による勧進活動であった。748年頃には金光明寺は東大寺と呼ばれるようになり、その経営を支えた東大寺初代別当で根本僧正は良弁で、華厳経講説を開始したのも彼である。実質的な造東大寺司長官は佐伯今毛人(イマエミシ)で、設計・立案・鋳造までの技術面の指導者は国中公麻呂(キミマロ)であり、百済からの渡来人の子孫である。761年には東大寺司次官に抜擢されている。
 大仏に使用された原材料は、本体の金銅(青銅)は当初の鋳造で銅は280トン、補修に16トン螺髪6.5トンに達する。銅は長門国の長登銅山から供給された。金メッキに用いた金は60㎏にもおよび、下野や陸奥で新たな金が産出して賄われたという。

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2013年2月 2日 (土)

節分のお多福と豆まき

 明日は節分。香椎宮には毎年節分になると、楼門に写真の如く大きなお多福の面が設置され、この面を潜っての参拝となる。因みに、山笠で有名な、福岡の総鎮守と言われる櫛田神社にも同様のお多福面が設置されている
 節分の豆まきは、「宮中の追儺(ツイナ)の行事(旧暦大晦日(節分)に、悪鬼を払い、疫病を除く行事)」の「豆うち」に倣い、民間にも広がったものだ。
 ところで何故、節分にお多福面なのか。
Photo  お多福面。元々お多福面は、神話の中のアメノウズメで、7世紀律令制下の神祇官に属する神楽をする女官・猿女君の始祖であると云われている。一方、節分との関係は、狂言における醜女や福女である「乙」(乙御前)が、この面をつける処から乙福面といわれ、転じてお多福面になったという。又、これ以外に頬がふっくらして(ふくれている)のと河豚(フク)をかけて、福の多い多福という説もある。いずれにしても福が多くなりますようにとの祈願であるようだ。
Photo_2  カタバミ(酢槳草、又は片喰)。日本に自生していたオキザリスは通称カタバミとも云われるので、前回と同じオキザリス種である。よく目にする5月~夏に咲く小さな青紫色の花をつける草花ムラサキカタバミが同種である。が、写真のこれは多々良河畔に咲いてはいたが、自生種のものより花が大きく、冬咲のオキザリス・セルヌア(O.cernua)の野生化種であろうと思う。

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