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2013年1月26日 (土)

倭国の興亡178: 国分寺造営と墾田永年私財法

 倭国は中国冊封体制から外れ、中国と対等の立場に立つ君主国をめざした。聖武は、そのために必要な事業を進展させたが、一方多くの悩みや迷いも併せ持ち、それから逃れるためか佛教への帰依を深めていった。
 藤原四子の死と長屋王の死の払拭の総仕上げ恭仁京遷都といわれるが、同時に精神的な仕上げ国分寺・国分尼寺だと云われる。
178  741年に国分寺・同尼寺造立が発願された国分寺建立詔が出されたが、それまでに既に寺・尼寺の造営は始まっていた。その最終段階で、造営に関し出された単発法令を集成し、願文を付けたものである。
 当初(737年)は国ごとに高さ一丈六尺の釈迦像と脇侍の文殊・普賢菩薩像の造営が命じられ、寺の建立ははなく既存の寺に安置された。740年七重塔を中心とする寺院建立が打ち出され、最勝王経、法華経を安置させた。
 753年総国分寺としての東大寺の搭が完成した。その東大寺に伝来する勅書銅版には建立の経緯が記されており、その銅版埋納の主は、寺・尼寺造営構想の主体であった光明子によるものであるとの説がある。759年には総国分尼寺としての法華寺が完成している。(写真上:聖武の直筆といわれる総国分寺の東大寺西大門の勅願写真下:総国分尼寺の法華寺本堂
178_3   一方これらと合わせ、743年には墾田永年私財法が発布された。大宝律令の公地公民制は、その後だされた三世一身法(開墾田の3世代の私有を認める)と共に、この私財法により解体が促されたと云われてきたが、中国の律令と異なり、耕地にゆとりが無い日本では農地開拓が必須であり、この法により開墾が促進され、且つ管理上、戸籍の完備により、開墾地をも含めての田地掌握が可能となって、律令国家による土地支配が強固なものとなった。即ち律令制の崩壊ではなく、実運用を可能にしたという見方に変わってきている。
 墾田永年私財法は、三世一身法を更に進め、律令実質完成への道が開かれたというべきで、大宝律令施行から42年してようやく中国の均田制に相当する制度全体の取り入れに、聖武治世下で初めて成功したと言えるのである。

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