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2013年1月14日 (月)

倭国の興亡175: 天然痘流行と諸兄政権発足

 新羅経由にての感染か、735年帰国の遣唐使による伝播か、天然痘が西海道諸国から大流行し始めて、流行は東上し、秋から冬にかけ、新田部親王や舎人親王が相次いで死去した。翌年には平城京でも天然痘は猛威を振るい、737年4月から8月の間に、藤原四兄弟がすべて感染死去してしまった。
175  同年9月漸く天然痘も下火になり、四兄弟補充人事が行われ、参議・橘諸兄を大納に、参議・多治比広成(県守の弟)、参議・大伴道足などで諸兄政権がスタート。藤原氏から12月に武智麻呂の長男・豊成が参議に補充されただけである。諸兄政権成立を機に、「大倭」として来た国の表記を養徳とし、美称の「大」をつけて「大養徳」として「やまと」と読ませた。が、747年「大倭」に戻り、又758年には「大和」表記になっている。(光明皇后:木村武山画)
 尚、長屋王の子供達の叙位が上げられ、聖武の母・藤原宮子が病気回復し、皇后宮(旧長屋王邸)で聖武と37年ぶりの対面を果たした。何れも長屋王復権のセレモニーだったと言われる。

175_4  これら過去を払拭するいくつもの手続きを踏んで、738年阿部内親王の立太子が行われた。聖武には安積(アサカ)親王がいたが、これをおして史上唯一の女性皇太子を立てたのは、ひとえに光明子所生(生んだ)か否かで決まったのである。
 橘諸兄は、光明子、藤原氏と協調的な姿勢で、聖武・光明の意志に沿って仏教政策を進めると共に、現実的な施策も行った。中央官使司役の仕丁帰国の際の食料支給、兵士役の停止など民政宥和策、雑官稲(雑税)の正税への統合、使われなかった穀類の使用認可など四子政権の政策継承と実態に即した対応を進めた。また郡司の定員削減、行政区画の変更に伴う諸国地図の作成、大学の整備及び貴族子弟の入学義務化など進め、順調なスタートを切った。 

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