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2013年1月22日 (火)

倭国の興亡177: 聖武の彷徨と恭仁京遷都

 広嗣の乱の最中、740年9月26日聖武は「朕思うところ在るに依りて、今月末暫く関東(不破の関の東)に行かんとす。その時に非ず雖も事已むこと能わず」との勅を、乱討伐大将軍・大野東人に発し、同29日に先ず伊勢へと行幸に出、以降約5年間。恭仁京、紫香楽宮へと宮都を転々と彷徨することになる。(下図聖武彷徨路参照
177  伊勢国・河口頓宮(関宮)には11月2日~12日の間滞在し、伊勢大神宮には使者を派遣し奉幣を行っている。14日から足かけ10日間赤坂頓宮に滞在。その後伊勢湾を北上し美濃に入り不破までは壬申の乱の大海人皇子と重なる工程をとり、12月1日から6日まで不破頓宮に滞在する。
 ここで、聖武は後の恭仁京への遷都を決断している。738年の橘諸兄の伊勢神宝使としての派遣と、重ねて天皇自身が伊勢に赴いての奉幣は初めてであり、この2度の異例の伊勢神宮との接触は特別の意図があった。即ち、一つには諸兄政権下で推し進める大仏建立や国分寺造営など鎮護国家の体制づくりへの神の加護。二つには恭仁京への遷都の画策であった。祖父大海人が壬申の乱で飛鳥浄御原宮を開いたのに重ね合わせて、天武の足跡をたどっての新京・恭仁京への直行だったとの見方もある。

 740年12月不破頓宮を発った聖武は、近江路を南下、瀬田川を渡り、壬申の乱の決戦地・志賀郡粟津に一泊、天智ゆかりの志賀山寺に参詣後、15日恭仁京に入っている
 741年正月聖武は恭仁京で元日朝賀の儀式を行った。勿論大極殿もまだ出来ていない。740年から始まった恭仁京造営の労働力は畿内から徴発された雇役民5100人によっているが、注目されるのが、僧行基が率いる優婆塞(在家の信者)の集団である。仏教統制を乱すとして弾圧されてきたが宮都造営では専門技術者集団として取り込まれ、その代償として得度承認された。
 恭仁京は東西560m、南北750mと長方形で、平城宮の2/7しかなかった。大極殿は平城宮第一次大極殿が移築されもので、743年移築完了した。
 恭仁と平城は共存し、両者一体として機能し、また難波宮も副都として機能し続けている

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