« 年改まりて | トップページ | 無償の愛、報われざる徳行 »

2013年1月 6日 (日)

倭国の興亡173: 渤海史・新羅使の来日で国内緊迫

 話が少し遡り、東アジヤ外交を見ておこう。726年新羅使・金奏勲が来日し、貢物を献上している。倭国も外交文書(璽書(ジショ))を与え、君臣関係の対応をした。これに先立ち723年には新羅使も来日し、8世紀以降、新羅使の来日は20回、倭国からの遣新羅使も17回あり、遣唐使を凌ぐ回数である。しかし、726年から、暫くは新羅使は途絶える。それは、東アジヤの情勢変化、即ち唐と新羅が接近し、且つ唐と渤海との関係の緊迫化により、新羅は倭国との関係解消に至ったようである。
173  渤海と日本の外交関係が樹立されたことも大きな要因である。渤海は698年に建国された高句麗・靺鞨の流れを汲む国である。倭国には727年初めて使節がきた。途中出羽国・蝦夷居住地に漂着し、16人が殺され、残る8人が漸く平城京にたどり着いたという。平城宮で聖武天皇が謁見し、国王・大武芸の国書と特産物の貂(テン)の皮300枚を献上している。倭国は手厚くもてなし送渤海使に渤海まで送らせた。この送渤海使・引田虫麻呂のもたらした新羅と唐の接近など東アジヤ情勢の報告に驚愕したのである。(地図8世紀前半頃の東アジヤ

 この頃、国内では731年惣官・鎮撫使の制度が導入された。惣官京と畿内を対象に、鎮撫使平城以西の道ごとに置かれた。これらの職掌は、徒党・盗賊・妖言の取締りであり、その権限は強大で、行政監察のみならず警察権を持ち武装された。惣官には兵馬の使用も許されている。
 この時期なぜ治安維持の措置が取られか730年には治安維持法が出され、京及び諸国の盗賊の横行、安芸や周防国での妖言や平城京の妖言(行基の集団)、兵馬や人を集めての猪鹿狩猟などの取締りがなされた。が、これ以外に、東アジヤの緊迫情勢を知り、対外的な緊張を背景に、国内の治安を維持し、兵の徴発系統を整えるためではなかったかと言われる。

|

« 年改まりて | トップページ | 無償の愛、報われざる徳行 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/56479861

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡173: 渤海史・新羅使の来日で国内緊迫:

« 年改まりて | トップページ | 無償の愛、報われざる徳行 »