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2013年1月30日 (水)

倭国の興亡179: 混迷の遷都

 742年聖武は8月27日から9月4日まで、恭仁宮、平城宮に留守を置いて甲賀郡紫香楽に行幸。同年12月29日より翌年元日まで再び紫香楽に行幸743年正月2日には恭仁宮大極殿での初の元日朝賀を行ったが、4月には3度目の紫香楽行幸をした。随行は5位以上の貴族28人、6位以下の官人が2370人の大人数で、2週間にわたる行幸は、造営が進んだ紫香楽のお披露目が目的だった。
 このように新規造営の事実を積み上げ、7月26日からの4度目の行幸11月2日までの長期に及び、この間、10月には紫香楽で、盧舎那仏の金銅像の建立を宣言している。その4日後、造立を行う寺の地を開いた。後の甲賀寺である。
 しかし、大仏造立を伴う紫香楽宮と恭仁京の造営の並立は財政的には不可能であった。結果、743年末までには恭仁京造営は未完成のまま中断された。
179  翌744年元日朝賀の儀も中止され、難波宮行宮が準備された。恭仁京造営中止に伴い、首都機能を担うべき宮として、副都の機能を有する難波宮が選ばれたのである。前期難波宮が686年焼失後、聖武が即位後、藤原宇合に命じ再建した後期難波宮であった。744年閏1月11日聖武は難波宮行幸に出発した。
 ところが、聖武の唯一の皇子・安積(アサカ)親王が急逝した。死因は不明だが、再び聖武は紫香楽宮への行幸となったものの、元正太上天皇と橘諸兄は難波宮に残り、26日難波宮を首都とする勅を諸兄が読み上げ、正式に首都と宣言されたのである。

 天皇が滞在を続ける紫香楽宮は次第に重きを成し、事実上の首都の機能を果たし始める。745年には紫香楽が新京と呼ばれ、遷都の象徴・大楯と槍(ホコ)が立てられた。これに先立ち紫香楽宮は、大仏を本尊とする甲賀寺造営に合わせてか、甲賀宮の宮号になっている。
 その4か月後、745年5月、官人による首都をどこにするかのアンケートが行われ、且つ僧を対象の調査でも、平城京が圧倒的に多かった。これを受け、聖武は平城京に戻り、恭仁京の民衆も平城京に還り始めたという。これを平城還都という。740年の伊勢行幸から4年半ぶりの平城宮である。大仏建立を条件に還都させたのは、天皇に諫言できる唯一の人、元正太上天皇だったという。

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