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2013年1月18日 (金)

倭国の興亡176: 藤原広嗣の乱

 737年夏には天地異変が相継いだ。遣新羅使がもたらしたと謂われる天然痘の大流行で、民部卿・房前の急逝。5月の日食。田植え時の大旱魃。夏、藤原4子病没、等々である。
 この時、藤原宇合(ウマカイ)の嫡男・広嗣は式部少輔であったが、素行が悪かったか、738年12月大宰少弐として、大宰府に左遷された。地方派遣が多く、唐帰りの僧・玄昉や中宮亮・吉備真備らの活躍を羨ましく思っていた広嗣は、740年9月聖武天皇に上表文を提出した。

 上表文の内容は、時の政治を批判し、天地の災害の依って来たる由縁も政治が誤っているからで、それは玄昉と真備の重用が原因だからと、二人の処分を要求したものであった。
176  聖武天皇はこれを認めず、これを反乱とし、大野東人を大将軍に任じ、兵士1万7千人を諸国から徴発し、又広嗣軍懐柔のため、畿内に移住していた隼人も派遣した。広嗣征討の基地を長門国に置き、9月21日第1陣、翌日第2陣が関門海峡を渡り、豊前国に入り25日までに豊前国全域を鎮圧してしまった。政府軍が広嗣の予想より早く豊前国全域を掌握してしまったために、広嗣軍は筑前・遠賀郡で政府軍と対峙したという。
 こうして10月上旬板櫃川の戦いとなり、広嗣は弟・綱手と共に肥前・松浦郡値嘉島(現五島福江)から済州島付近まで遁れたが、10月23日五島の北端・宇久島で捕まえられた。広嗣は11月1日大宰府移送中に処刑された。

 この乱は、朝廷側の対応が迅速であったが、節度使設置による軍政整備が功を奏しことによる政府軍の勝利だった。一方、広嗣側の戦闘意欲が如何ほどであったか疑わしく、実際に政府軍と戦ったのは大宰府の下級官人と、大宰府の意向を体現する形で抵抗した豊前国の郡司たちだったと云われる。 

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