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2013年1月

2013年1月31日 (木)

春になった!

 今日の天気予報では最高気温15℃。午後ウオーキングに出たが、風もなく、非常に穏やかな日和となっており、歩いていても全く春真っ只中の気分。3月上旬の気温だそうだから、真冬から一挙に春に来た気分であり、なんとも良い心地で歩いてきた
 長期予報では、今年の春は早いと言うから、来週又寒さが戻る予報ではあるが、それも短期で立春以降急激に暖かくなりそうだ。歳を取るにつれ、なんとなく体調が気候に影響を受けるような気がしていたが、それもあるが、気持ちの上での影響が大きいのでは?と思い始めているこの頃である。
Photo  歩いていると、道端にこの花が咲いていた。調べてみると、これはオキザリス(Oxalis)と言う。但し世界中にオキザリスは800種あり、花の形も、開花期も種々ある由。更に調べると、オキザリス属の中の、オキザリス・バリアビスと言うらしい。
 バリアビス・ラベンダーもしくはピンクといって、青紫色~ピンク系の花である。
Photo_4   バリアビス・ホワイトといい、この花は半分野生化したというか、捨てられたというか、最近道端によく見掛ける。これら二つとも道端の雑草と一緒に在って咲いていたものである。
 オキザリスは葉にシュウ酸塩を含み、咬むと酸っぱい。シュウ酸はOxalic acidというが、オキザリス類(カタバミ属)の英名Oxalisから来ている。葉にはクエン酸や酒石酸も含まれ、何れも酸っぱい味のするものである。 
 

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2013年1月30日 (水)

倭国の興亡179: 混迷の遷都

 742年聖武は8月27日から9月4日まで、恭仁宮、平城宮に留守を置いて甲賀郡紫香楽に行幸。同年12月29日より翌年元日まで再び紫香楽に行幸743年正月2日には恭仁宮大極殿での初の元日朝賀を行ったが、4月には3度目の紫香楽行幸をした。随行は5位以上の貴族28人、6位以下の官人が2370人の大人数で、2週間にわたる行幸は、造営が進んだ紫香楽のお披露目が目的だった。
 このように新規造営の事実を積み上げ、7月26日からの4度目の行幸11月2日までの長期に及び、この間、10月には紫香楽で、盧舎那仏の金銅像の建立を宣言している。その4日後、造立を行う寺の地を開いた。後の甲賀寺である。
 しかし、大仏造立を伴う紫香楽宮と恭仁京の造営の並立は財政的には不可能であった。結果、743年末までには恭仁京造営は未完成のまま中断された。
179  翌744年元日朝賀の儀も中止され、難波宮行宮が準備された。恭仁京造営中止に伴い、首都機能を担うべき宮として、副都の機能を有する難波宮が選ばれたのである。前期難波宮が686年焼失後、聖武が即位後、藤原宇合に命じ再建した後期難波宮であった。744年閏1月11日聖武は難波宮行幸に出発した。
 ところが、聖武の唯一の皇子・安積(アサカ)親王が急逝した。死因は不明だが、再び聖武は紫香楽宮への行幸となったものの、元正太上天皇と橘諸兄は難波宮に残り、26日難波宮を首都とする勅を諸兄が読み上げ、正式に首都と宣言されたのである。

 天皇が滞在を続ける紫香楽宮は次第に重きを成し、事実上の首都の機能を果たし始める。745年には紫香楽が新京と呼ばれ、遷都の象徴・大楯と槍(ホコ)が立てられた。これに先立ち紫香楽宮は、大仏を本尊とする甲賀寺造営に合わせてか、甲賀宮の宮号になっている。
 その4か月後、745年5月、官人による首都をどこにするかのアンケートが行われ、且つ僧を対象の調査でも、平城京が圧倒的に多かった。これを受け、聖武は平城京に戻り、恭仁京の民衆も平城京に還り始めたという。これを平城還都という。740年の伊勢行幸から4年半ぶりの平城宮である。大仏建立を条件に還都させたのは、天皇に諫言できる唯一の人、元正太上天皇だったという。

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2013年1月29日 (火)

寒が緩んで

 昨日の安倍首相の国会での所信表明演説。取り敢えずは直面する課題についての内容で、彼の持論である憲法改正や集団的自衛権問題には一言も触れなかった。最初の所信演説だからと注目されたが、やはり7月の参院選挙を念頭に置いたものとなった。やはり党利党略を優先し、「国民のための政治をやる」という姿勢が全然見えなかったのは残念である。
 ところで、昨日は久しぶりと言う感じで、寒が緩み、向こう1週間は暖かい日が続くという。そんな暖かい陽ざしの中を、ゆっくり歩いてきた。
Photo  やはり野草類はまだ花をつけておらず、梅もやっと蕾が膨らみ始めたところである。そんななか、家の前にプランターを並べ、花を植栽されている家があり、楽しませてもらった。
 写真はその中の「サクラソウ」普通桜草は日本で育種が進んだ日本桜草のことで、それは江戸時代から育種され、4~6月頃に咲く古典園芸植物で数百種に及ぶとされているものである。
Photo_2  対して西洋桜草、洋名でプリムラといわれるものがこの写真の花である。これは世界で400種とも云われ、花の形も種々あるようだが、これはプリムラ・マラコイデス(Promula malacoides)と言う学名で、通称マラコイデス、別名オトメザクラとも呼ばれるものだ。花期は12月~4月の冬咲である。たまたま紅白の花があったので撮ってきた。

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2013年1月27日 (日)

誰が教える「人たる生き方」

 最近の学校における『いじめ』の問題に対し、自民党は「いじめ防止対策基本法」なる法案を検討している。「学校」という教育の場(教育は人間を育てること)で、「人たる生き方」即ち倫理とか道徳、更には哲学といったものを教えることが何よりも優先する筈だが、戦後教育はこれらを一切やらず (外国には宗教により人の在り方を学ぶチャンスがあるが、日本人の多くはそれを教える宗教』を持たない)、それを法律で規制しようとしている。
 人たる生き方、道徳、倫理は家庭生活の中で育まれるウエイトが非常大きい。が、最近の核家族では、それがない。昔の爺、婆の役割を誰が、どう果たばいいのだろうか。
 そんな事を思いながら歩いたが、今の冬枯れ時、山茶花、水仙の他は園芸種の花しか咲いてない。民家の庭先の園芸種は下記の2点が圧倒的に多い。
Photo  ミニ水仙。今盛りの日本水仙は1本茎に多くの花がつくが、この外来種(テータテータ(tete a tete)或いはティタティタという)1茎に1花しか咲かないのが特長。小さな庭或いは鉢植えに手頃な大きさで、花の少ない今時期咲くのが人気の秘密か。
Photo_2  パンジー和名は3色菫ビオラとも呼ばれる。これは8cm程の大きな花である。普通2~3cmの小さな花をビオラ、6~8cmの大きな花をパンジーと呼ぶ慣習があったようだが、最近は混同されている由。元々両者間の種別には厳密な区別がないそうだ

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2013年1月26日 (土)

倭国の興亡178: 国分寺造営と墾田永年私財法

 倭国は中国冊封体制から外れ、中国と対等の立場に立つ君主国をめざした。聖武は、そのために必要な事業を進展させたが、一方多くの悩みや迷いも併せ持ち、それから逃れるためか佛教への帰依を深めていった。
 藤原四子の死と長屋王の死の払拭の総仕上げ恭仁京遷都といわれるが、同時に精神的な仕上げ国分寺・国分尼寺だと云われる。
178  741年に国分寺・同尼寺造立が発願された国分寺建立詔が出されたが、それまでに既に寺・尼寺の造営は始まっていた。その最終段階で、造営に関し出された単発法令を集成し、願文を付けたものである。
 当初(737年)は国ごとに高さ一丈六尺の釈迦像と脇侍の文殊・普賢菩薩像の造営が命じられ、寺の建立ははなく既存の寺に安置された。740年七重塔を中心とする寺院建立が打ち出され、最勝王経、法華経を安置させた。
 753年総国分寺としての東大寺の搭が完成した。その東大寺に伝来する勅書銅版には建立の経緯が記されており、その銅版埋納の主は、寺・尼寺造営構想の主体であった光明子によるものであるとの説がある。759年には総国分尼寺としての法華寺が完成している。(写真上:聖武の直筆といわれる総国分寺の東大寺西大門の勅願写真下:総国分尼寺の法華寺本堂
178_3   一方これらと合わせ、743年には墾田永年私財法が発布された。大宝律令の公地公民制は、その後だされた三世一身法(開墾田の3世代の私有を認める)と共に、この私財法により解体が促されたと云われてきたが、中国の律令と異なり、耕地にゆとりが無い日本では農地開拓が必須であり、この法により開墾が促進され、且つ管理上、戸籍の完備により、開墾地をも含めての田地掌握が可能となって、律令国家による土地支配が強固なものとなった。即ち律令制の崩壊ではなく、実運用を可能にしたという見方に変わってきている。
 墾田永年私財法は、三世一身法を更に進め、律令実質完成への道が開かれたというべきで、大宝律令施行から42年してようやく中国の均田制に相当する制度全体の取り入れに、聖武治世下で初めて成功したと言えるのである。

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2013年1月25日 (金)

梅が綻び始めた

 自民、公明両党による13年度税制大綱が決定した。勿論税法改正が必要で、今後の国会審議で最終決定となるが、企業を元気づけるための措置が中心で、庶民の生活は今後の消費税増税に向け、住宅ローン減税を4年間延長措置を取るぐらいで、現時点では大きな変更はない。
Photo  アルジェリアテロでは日本人10人の犠牲者が確認され、明るい話が少ないが、来週の天気予報では寒気が戻るというものの、なんとなく春めいた中を歩いていて、梅の蕾が綻んでいるのを発見。それをご紹介。
Photo_2  紅梅下:白梅。立春過ぎれば、大宰府の梅も咲きだすだろう。

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2013年1月23日 (水)

譲歩した日銀

 昨日、日銀は金融政策決定会議で、遂に「2%の物価目標」と国債などの買入れの「無期限緩和」を決定した。行政から独立する中央銀行が行政の意向を汲んで打ち出す金融策はあってもおかしくないが、今回の場合は政府の圧力に負けた感が強く、種々議論を呼ぶところである。
 ところで、この物価目標はデフレ脱却の切り札として出されたが、確かに各国とも2%程度の物価上昇率とすべく、金融策を採っているようだが、これは本来インフレ抑制策として導入されているものである。従って、今回の様にデフレ脱却のために導入されるのは珍しく、今後の運営が注目される。
 今週後半から又寒さが厳しくなるそうだが、もう早春の草花が咲きだした。
Photo  オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)。果実が二つ合されて、フグリに似ている故の名前だが、なんとなく憚れる。雪が溶けた道端の雑草の中に最早咲いているのを見つけた。通常2月頃から5月まで咲く。これは帰化植物で、在来のイヌノフグリが消えてしまったという。小ささな青紫色の可愛い花が春一番を告げている
Photo_2  :今を盛りとぎっしり詰まって咲いている満開の山茶花。今年ほどたくさん花が付くのは珍しい。

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2013年1月22日 (火)

倭国の興亡177: 聖武の彷徨と恭仁京遷都

 広嗣の乱の最中、740年9月26日聖武は「朕思うところ在るに依りて、今月末暫く関東(不破の関の東)に行かんとす。その時に非ず雖も事已むこと能わず」との勅を、乱討伐大将軍・大野東人に発し、同29日に先ず伊勢へと行幸に出、以降約5年間。恭仁京、紫香楽宮へと宮都を転々と彷徨することになる。(下図聖武彷徨路参照
177  伊勢国・河口頓宮(関宮)には11月2日~12日の間滞在し、伊勢大神宮には使者を派遣し奉幣を行っている。14日から足かけ10日間赤坂頓宮に滞在。その後伊勢湾を北上し美濃に入り不破までは壬申の乱の大海人皇子と重なる工程をとり、12月1日から6日まで不破頓宮に滞在する。
 ここで、聖武は後の恭仁京への遷都を決断している。738年の橘諸兄の伊勢神宝使としての派遣と、重ねて天皇自身が伊勢に赴いての奉幣は初めてであり、この2度の異例の伊勢神宮との接触は特別の意図があった。即ち、一つには諸兄政権下で推し進める大仏建立や国分寺造営など鎮護国家の体制づくりへの神の加護。二つには恭仁京への遷都の画策であった。祖父大海人が壬申の乱で飛鳥浄御原宮を開いたのに重ね合わせて、天武の足跡をたどっての新京・恭仁京への直行だったとの見方もある。

 740年12月不破頓宮を発った聖武は、近江路を南下、瀬田川を渡り、壬申の乱の決戦地・志賀郡粟津に一泊、天智ゆかりの志賀山寺に参詣後、15日恭仁京に入っている
 741年正月聖武は恭仁京で元日朝賀の儀式を行った。勿論大極殿もまだ出来ていない。740年から始まった恭仁京造営の労働力は畿内から徴発された雇役民5100人によっているが、注目されるのが、僧行基が率いる優婆塞(在家の信者)の集団である。仏教統制を乱すとして弾圧されてきたが宮都造営では専門技術者集団として取り込まれ、その代償として得度承認された。
 恭仁京は東西560m、南北750mと長方形で、平城宮の2/7しかなかった。大極殿は平城宮第一次大極殿が移築されもので、743年移築完了した。
 恭仁と平城は共存し、両者一体として機能し、また難波宮も副都として機能し続けている

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2013年1月21日 (月)

議論呼ぶ○○ノミクス

 昨日のNHK「日曜討論」では「アベノミクス」と呼ばれる安倍政権の金融政策について議論が戦わされた。要するにデフレを呼び、うまく物価上昇をコントロールできない施策とする反対論、行く過ぎぬようコントロールすれば妙策とする賛成論が真っ向対立。又、最近欧州諸国では故意に作り出す円安政策に批判がたかまっているという
 今日の毎日の同志社大教授・浜矩子氏「危機の真相」なる論説では「レーガノミクスが金融政策への便乗商法なら、アベノミクスは恫喝商法だ」とまで言い切り、レーガンはたまたま成功した事例に過ぎないとしている。
 いずれにせよ、国民生活によい影響が出るにしても2~3年先と言うのが大方の意見である。
 大寒を過ぎて、昨日は好天となり、春めいた気分の中見つけた春の兆しの写真2枚。
Photo  デコポン。これは登録商標名で、本名はシラヌヒ(不知火)と言う柑橘類。最近当地ではよく植えられ、果実も多く出回っている。写真の如く上部に凸部がある故の名称。長崎農試で夏柑の交配で出来、熊本果実農協が上手く栽培に成功したもの。糖度13で爽やかな甘さで美味しい
Photo_2  マキセキウン(巻積雲)。絹積雲とも云われる。昨日午後、この雲が広がったが、私は初めて見るもので、調べたところ、上記名のものであろうと推定した高度6000m以上で、気温ー25℃以下の時、発生する雲だそうだ。何か規則正しく作ったような横縞で自然の造形の妙に驚いた次第

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2013年1月19日 (土)

昨日、初積雪

 一昨日深夜から、昨日朝まで降った雪が、今冬初めて平地にも積もった。玄海に面した福岡は当然冬には雪がちらつくのは珍しくない。が、丁度朝鮮半島の陰になるせいか、佐賀県及び関門にはよく降る雪も、何故か福岡には余り降らず、最近はタイヤチェーンは使ったことが無い。だから、昨日の雪は珍しかった
 朝から溶け始め、大きな音を立て滑り落ちた雪は、今日現在もまだ残っている。と言うことで、今日も今現在(昼)まだ寒さが続いている。
Photo  雪風景。これは昨日の午後の写真。北側の屋根にはまだ雪が残っていた風景。都市高速は道路自体が冷え込んでいるので、夕刻になってやっと交通規制を解除した。先日、東京の雪に対する弱さを記したが、福岡もやはり交通は直ぐ麻痺した。
Photo_2  フウセントウワタの実(風船唐綿)。割ると中に綿状のものが詰まっている。これは昨年8月8日の当ブログに花と実が付いたのを掲載した。花が春から夏に咲き、実が夏から秋につく。だから今ごろ実が付いているのが珍しい。厳寒とは言いながら、北海道の流氷が流れだしたとの報道があった。やはり暖冬なのかな

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2013年1月18日 (金)

倭国の興亡176: 藤原広嗣の乱

 737年夏には天地異変が相継いだ。遣新羅使がもたらしたと謂われる天然痘の大流行で、民部卿・房前の急逝。5月の日食。田植え時の大旱魃。夏、藤原4子病没、等々である。
 この時、藤原宇合(ウマカイ)の嫡男・広嗣は式部少輔であったが、素行が悪かったか、738年12月大宰少弐として、大宰府に左遷された。地方派遣が多く、唐帰りの僧・玄昉や中宮亮・吉備真備らの活躍を羨ましく思っていた広嗣は、740年9月聖武天皇に上表文を提出した。

 上表文の内容は、時の政治を批判し、天地の災害の依って来たる由縁も政治が誤っているからで、それは玄昉と真備の重用が原因だからと、二人の処分を要求したものであった。
176  聖武天皇はこれを認めず、これを反乱とし、大野東人を大将軍に任じ、兵士1万7千人を諸国から徴発し、又広嗣軍懐柔のため、畿内に移住していた隼人も派遣した。広嗣征討の基地を長門国に置き、9月21日第1陣、翌日第2陣が関門海峡を渡り、豊前国に入り25日までに豊前国全域を鎮圧してしまった。政府軍が広嗣の予想より早く豊前国全域を掌握してしまったために、広嗣軍は筑前・遠賀郡で政府軍と対峙したという。
 こうして10月上旬板櫃川の戦いとなり、広嗣は弟・綱手と共に肥前・松浦郡値嘉島(現五島福江)から済州島付近まで遁れたが、10月23日五島の北端・宇久島で捕まえられた。広嗣は11月1日大宰府移送中に処刑された。

 この乱は、朝廷側の対応が迅速であったが、節度使設置による軍政整備が功を奏しことによる政府軍の勝利だった。一方、広嗣側の戦闘意欲が如何ほどであったか疑わしく、実際に政府軍と戦ったのは大宰府の下級官人と、大宰府の意向を体現する形で抵抗した豊前国の郡司たちだったと云われる。 

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2013年1月17日 (木)

問われる日本技術・・・B787

 昨日、全日空B787が宇部空港を飛び立ち、羽田に向かったところ、電気室に煙が発生、高松空港に緊急着陸した。このボーイング社製最新鋭の旅客機は、機体の約5割に炭素繊維の複合材を使用し、軽量化・低燃費化し、航続距離を伸ばし、鳴り物入りで全日空が世界に先駆け営業運行を開始し、日航も昨年4月から導入した。全日空が17機、日航が7機保有し、今後増やす予定の中型の成長戦略機としての位置づけがあった。
 この機種は日米協同開発といってもいい機種で、部品の35%を日本製品が占めている。ところが開発時からトラブルが続発し、国内での運航上の不具合は昨年が6件、今年入り5件が続発した。当然のことながら、今日は両社とも同機種の運航は見合わせているが、今後の対応如何では、同機種の運航は停止されることもあり得る。
 技術競争が招いた落とし穴ではなかったか。特に安全第一の航空業界でのミスは許されない。全日空、日航及びボーイング社にとっては大変な痛手とは思えるが、安易な妥協は許されない。電子制御の危うさを見直すべき絶好のチャンスであろう。
 今日も厳寒が続いている、その中での冬景色。
Photo  マーガレット。和名はモクシュンギク(木春菊)。マーガレットにはフランスギクの他、ヒナギクも含めることがあるという。キク科の半耐寒性多年草。早春から夏にかけて咲く。花は白、ピンク。黄色がある。5-6月に挿し、8-9月に主植すると冬季に花が咲くそうだ。
Photo_2  
アオサギ(青鷺)。これまでも載せたが、この寒さの中、多々良川の中で、ジイーッと佇んでいる姿は、大変な厳しさに耐えているようで、あらゆる動物が生きる事の厳しさの中で頑張っているんだなーと感心した次第。 

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2013年1月15日 (火)

爆弾低気圧・・・首都圏麻痺

 昨日の成人の日、関東圏は所望「爆弾低気圧」と言われる超低気圧に覆われ、初雪が大雪となった。都心で8㎝の積雪であったそうだが、3℃と言う冷え込みで融けず、交通網が完全麻痺してしまった。又羽田空港も閉鎖し空の便も閉ざされ、まるで陸の孤島化である。
 あらゆる機能が集中している首都の交通網がマヒすれば、人的移動以外、物流もストップし、首都機能を喪失した。物理的な国土強靭化が新政府の政策の眼目になったが、やや異常気象によってたちまち麻痺する交通通信網で、すぐに各種機能が停止するようでは、なんとも脆い気がする。ソフトの保全のために必要なハードの強靭化が望まれる。
 それでも春が近づいてきている兆しを紹介。
Photo  ノースポール。別名クリサンセコム。駅前のロータリーの花壇に植えられ花が咲き始めた。キク科フランスギク属の半耐寒性多年草。この名前、サカタノタネの商品名だが一般名として定着したそうだ。花期は今から春まで。日本に入ったのは1960年で、まだ新顔
Photo_2  キンカン(金柑)。漸く色着いてきた。この近辺は他の柑橘類と共にこの金柑を植えている庭が多い。庭木として観賞用ともなるが、実は蜂蜜漬けや甘露煮にして、咳や喉痛の時食す、家庭薬としても使われる。又鉢植えにして盆栽として楽しんでいる家もある。

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2013年1月14日 (月)

倭国の興亡175: 天然痘流行と諸兄政権発足

 新羅経由にての感染か、735年帰国の遣唐使による伝播か、天然痘が西海道諸国から大流行し始めて、流行は東上し、秋から冬にかけ、新田部親王や舎人親王が相次いで死去した。翌年には平城京でも天然痘は猛威を振るい、737年4月から8月の間に、藤原四兄弟がすべて感染死去してしまった。
175  同年9月漸く天然痘も下火になり、四兄弟補充人事が行われ、参議・橘諸兄を大納に、参議・多治比広成(県守の弟)、参議・大伴道足などで諸兄政権がスタート。藤原氏から12月に武智麻呂の長男・豊成が参議に補充されただけである。諸兄政権成立を機に、「大倭」として来た国の表記を養徳とし、美称の「大」をつけて「大養徳」として「やまと」と読ませた。が、747年「大倭」に戻り、又758年には「大和」表記になっている。(光明皇后:木村武山画)
 尚、長屋王の子供達の叙位が上げられ、聖武の母・藤原宮子が病気回復し、皇后宮(旧長屋王邸)で聖武と37年ぶりの対面を果たした。何れも長屋王復権のセレモニーだったと言われる。

175_4  これら過去を払拭するいくつもの手続きを踏んで、738年阿部内親王の立太子が行われた。聖武には安積(アサカ)親王がいたが、これをおして史上唯一の女性皇太子を立てたのは、ひとえに光明子所生(生んだ)か否かで決まったのである。
 橘諸兄は、光明子、藤原氏と協調的な姿勢で、聖武・光明の意志に沿って仏教政策を進めると共に、現実的な施策も行った。中央官使司役の仕丁帰国の際の食料支給、兵士役の停止など民政宥和策、雑官稲(雑税)の正税への統合、使われなかった穀類の使用認可など四子政権の政策継承と実態に即した対応を進めた。また郡司の定員削減、行政区画の変更に伴う諸国地図の作成、大学の整備及び貴族子弟の入学義務化など進め、順調なスタートを切った。 

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2013年1月13日 (日)

冬日和に咲く花

 12月までの寒中の晴天は「小春日」というが、正月以降は、「冬日和という。最近晴れても空気が冷たく、とても「日和」とはいう気分ではなかったが、昨日は最高気温が10℃を越え、3月上旬ごろの気温とか。本当に暖かく、いつもより1枚少なめに着てあるいたが、心地よい汗をかいた。
 暖かいと、気持ちも緩み、ゆっくりと風景を楽しみながら歩けた。桜の木もよく観察するともう花芽ができている。樹々は既に春に向かって息づいていた。草花もよく見れば小さな花をつけている。これからは歩くのが楽しみになる季節である。
2  エリカ。珍しい花だが、勿論園芸用。花屋さんの店頭にあった。別名ヒースと言うツツジ科の常緑性の小低木。ヨーロッパ原産で園芸種は400種に及び、色・形も種々ある由。花期は今から4月頃まで。写真はプランターに植え、高く伸びないよう剪定されたものである。
Photo  スイセン(水仙)。咲始め頃一度掲載したが、この頃漸く満開近く、彼方此方で散見されるようになったので再掲した。スイセンは
中国名の「水仙」を音読みしたもの。中国の仙人は天の「天仙」、山の「山仙」そして水の「水仙」がいるようで、水辺に咲くこの花の姿が仙人にたとえられての名前だそうだ。

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2013年1月11日 (金)

真冬になった

 今冬の長期予報で寒くなるとは承知していたが、いざ本当に寒くなると、「この寒さはたまらん!」と言いたくなる。最低気温が0-1℃、最高で5-7℃。ほぼ平年並みとは申せ、ここ数年間、暖冬に慣れた身にはとても寒く感じる。ウオーキングしていても、手が冷たく感じる。勿論手袋していての話。
 でもあと10日ほどで「大寒」、それが過ぎれば徐々に暖かくなり、立春(2月4日)の頃にはなんとなく春めいてくるであろう。又、冬の厳しい冷え込みがいろんな植物を元気にし病害虫を抑え、又日本酒の出来上がりをよくするのである。それを楽しみ春を待とう。
Photo  ナンテン(南天)。ここんところの急な冷え込みで、南天の葉がこんな紅葉をした。珍しい紅葉なので撮った。南天は葉にシアン化水素(猛毒)を微量含むので食品の防腐作用があるため、お弁当などに、南天の葉を添える。尤も、これはナンテン即ち難を転ずるの意味で、食中毒を防ぐ意味でもある。
Photo_2  ボケ(木瓜)。前回とは違う木で、だいぶ花の数も増えてきた。家紋になっている木瓜紋はッコウモンと読むが、木瓜(キウリ)→キュウリの輪切りと言う説もあるが、この家紋は古く平安時代から存在する家紋である。

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2013年1月10日 (木)

倭国の興亡174: 東アジヤに対応した遣唐使・節度使

 732年1月、朝貢の間隔があいたので、督促するための遣新羅使に、角家主が任命された。ところが2日後、新羅使・金長孫が来日し、5月には平城京に到着し、種々の財物以外に、オウム・ロバ・猟犬等が献上された。この使節の目的は朝貢間隔の延期にあり、3年に1度となった。
174  金長孫の貴国と入替りに角家主が8月に帰国した。彼は疋田・渤海使にもまして、東アジヤ情勢について重大な情報をもたらした。(新羅からの舶載品で「左波利(銅85%,錫15%合金)の器)」
 726年黒水靺鞨が、無断で渤海領を通過し、唐に使節を派遣した。唐がこれを契機に黒水州を設置。これに渤海が反発し、国王の弟大門芸に靺鞨を攻撃させたが大門芸は兄王と対立し、唐に亡命してしまう。
732年渤海国王は山東半島の登州を攻めさせ、渤海・唐の対立が強くなる。渤海の半島南下を警戒する新羅は唐救援に赴こうとしたが、大雪に阻まれた。新羅は情勢変動の中で半島の領有を唐に正式に認めさせ、独立国を目指す。そして、日本との対等の関係も模索し始めた。このように新羅と唐の接近、唐と対立し倭国に接近を図る渤海、と三者三様の思惑の中に巻き込まれる倭国なのだ。
 732年、16年ぶりの遣唐使が、緊張の東アジヤ情勢に対応するために、派遣が決まった。翌733年4月大使・多治比大成が出発し、734年11月帰国。玄昉や吉備真備の多数の典籍や唐インド僧の来日、日本僧の入唐などその後の日本文化に大きく影響する重要な役割を果たした。

 もう一つ、情勢認識を確かにしたのは節度使の設置である。節度使の任務.兵器や牛馬の移動禁止。 .軍団の幕・釜の補充と籾・塩の調達、兵器の修理、軍船の築造。 .兵士の令の規定通り徴発。 その1/4が常に動員可能体制とすること。である。節度使には参議藤原房前(東海・東山2道)、同多治比県守(山陰道)、同藤原宇合(西海道)を任じた。
これら防備体制は
733年「備辺式」に規定された初期目的を果たし、734年節度使の任は解かれた。内政・外交の両面政策が、遣唐使帰国をまたずその半面は完了したのである。734年、新羅使が国号を王城国と称し朝貢ではなく対等外交を要求したので、聖武天皇との謁見を停止し、一行を退去させた

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2013年1月 9日 (水)

今年の日本の運勢

 今年、日本はよくなるか否か。そう簡単に内閣が代わったからよくなるものではないと思うが、逆にアベノミクス(安倍経済政策)による過大なデフレが心配だ。竹中平蔵・慶大教授の話では、金融政策を活用したデフレの克服。柔軟な財政政策で、財政健全化への道筋をつけること。構造改革で産業を強くすること。この三つを推し進めて初めて成功する政策だと指摘している。
 今は金融政策のみが先行しているが、残る財政健全化と構造改革はこれからで、構造改革はTPPなしにはあり得ないという。新春で大きな夢がばらまかれたが、残り2項目の推進となると期間を必要とし、国民所得が増えるのはだいぶ先のようだ。その間、国民は耐え忍ぶことが必要になることを認識せねばならない。今日撮ってきた冬景色を紹介
Photo  ヒイラギモチ(柊黐)。葉に棘があり、ヒイラギに似ているが、柊の花期(11-12月)、結実期(春)と違う事でこれはヒイラギではない。和名でシナヒイラギ、又はセイヨウヒイラギと呼ばれることもあるモチノキ科の植物。中国原産で葉の棘が鋭く、花期は春で今頃赤い実をつける。クリスマスに実が使われ、葉は樅の木が使われるという。
Photo_2  シラサギ(白鷺)の群れ。白鷺がこのように群れているのは珍しい。多分この場所は水の流れ込むところで、餌があることと、ここは日溜りで寒風が当らない故でないかと思う。中に1羽アオサギが混じっている。尚、シラサギという種類はなく、白いサギの総称で、サギ類はいろんな種類が一緒に営巣するそうだ。

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2013年1月 7日 (月)

無償の愛、報われざる徳行

 毎日の「風知草」(山田孝男氏筆)なるコラムの記事。安倍首相が正月、夫人と映画「レ・ミゼラブル」を観賞したという。この映画、2時間38分の大作だが、観客動員数が137万人と暮れから猛烈な勢いで伸びている由。理由は無償の愛、報われざる徳行が、いつか人を変え、社会を動かすというビクトル・ユゴーの原作の主題が、大震災の後の日本人を揺さぶっているというのである。これは現在の日本、「矛盾はカネで解決」の復古調はもはや通用しない、と言う国民意識の変化の底流に触れていると言っている。安倍さんに心してほしい話だ。
 先週より若干、寒も緩んで久しぶりに歩いていると確実に春に向かっている事を告げる花や木にでくわす。そんなものを拾い上げて撮った写真。
Photo  ビワ(枇杷)。11月~2月が花期。美しい花ではない。容易に且つ早く成長するから観葉植物として庭にも植栽されるようだ。果実の収穫は5-6月。茂木が有名。枇杷は中国原産で日本には古代に入り、日本からイスラエル、ブラジルに広まったという。
Photo_2  ローバイ(蝋梅)。昨12月に咲き始めを掲載したが、現在
見頃に近い状態で咲き誇っているの再掲した。近づくといい香りを放っており、冬日和の中、いい気持ちにしてくれる。

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2013年1月 6日 (日)

倭国の興亡173: 渤海史・新羅使の来日で国内緊迫

 話が少し遡り、東アジヤ外交を見ておこう。726年新羅使・金奏勲が来日し、貢物を献上している。倭国も外交文書(璽書(ジショ))を与え、君臣関係の対応をした。これに先立ち723年には新羅使も来日し、8世紀以降、新羅使の来日は20回、倭国からの遣新羅使も17回あり、遣唐使を凌ぐ回数である。しかし、726年から、暫くは新羅使は途絶える。それは、東アジヤの情勢変化、即ち唐と新羅が接近し、且つ唐と渤海との関係の緊迫化により、新羅は倭国との関係解消に至ったようである。
173  渤海と日本の外交関係が樹立されたことも大きな要因である。渤海は698年に建国された高句麗・靺鞨の流れを汲む国である。倭国には727年初めて使節がきた。途中出羽国・蝦夷居住地に漂着し、16人が殺され、残る8人が漸く平城京にたどり着いたという。平城宮で聖武天皇が謁見し、国王・大武芸の国書と特産物の貂(テン)の皮300枚を献上している。倭国は手厚くもてなし送渤海使に渤海まで送らせた。この送渤海使・引田虫麻呂のもたらした新羅と唐の接近など東アジヤ情勢の報告に驚愕したのである。(地図8世紀前半頃の東アジヤ

 この頃、国内では731年惣官・鎮撫使の制度が導入された。惣官京と畿内を対象に、鎮撫使平城以西の道ごとに置かれた。これらの職掌は、徒党・盗賊・妖言の取締りであり、その権限は強大で、行政監察のみならず警察権を持ち武装された。惣官には兵馬の使用も許されている。
 この時期なぜ治安維持の措置が取られか730年には治安維持法が出され、京及び諸国の盗賊の横行、安芸や周防国での妖言や平城京の妖言(行基の集団)、兵馬や人を集めての猪鹿狩猟などの取締りがなされた。が、これ以外に、東アジヤの緊迫情勢を知り、対外的な緊張を背景に、国内の治安を維持し、兵の徴発系統を整えるためではなかったかと言われる。

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2013年1月 5日 (土)

年改まりて

 年末から年明け3ヶ日、寒気団に覆われ、元旦には我が家の庭にもうっすらと雪が積もった。初詣には出かけたものの、どこの神社も、商店街も多くの人出で、かつ寒いので、三社詣りもせずに、テレビを眺め、夜はお酒のグータラ正月だった。
 昨日の東証大発会では株価も上昇、評論家諸子の話でも、春先までは株価上昇も、円安も続くそうな。尤も諸物価も上昇し、庶民の生活は楽になるとは限らない。アベノミクスは危うい感じもあるそうな。取り敢えず、ご祝儀相場で明るい年明けではあった。
Photo  さすが昨日には少し体を動かそうとウオーキング。いつものコースを1時間余り歩いて、結構汗もかいて来たが、景色は冬枯れ。冬日和ではあったが、冷たい風の中の冬景色の写真。は池に飛来して元気に泳ぎ回っている鴨の一団。カメラを構えると相変わらず逃げてゆく。
Photo_2  は、先日からの寒さで、花は元気に咲いているが、葉が色づいて(紅葉?)しまった山茶花。周りのツツジ類も、きれいに紅葉しているが、寒風の中では観賞するゆとりもなく、歩いてきた。

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