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2012年12月15日 (土)

倭国の興亡168: 藤原一族躍進への不比等の野望

 藤原不比等は鎌足の次男として659年に生まれた。長男・定恵は学問好きで、学僧として入唐、帰国後間もなく23歳で急死。兄の死で、不比等の人生は一変する。父・鎌足は不比等11歳のとき他界。異母姉妹が天武天皇の夫人となったものの、不比等が表舞台に立つのに20年の歳月を要す。
 幼少時は山科の田辺史大隅の家で育てられた。田辺史は渡来系の氏族で、文人として高名な家だったと思われる。このような環境は律令国家建設を担う政治家を育てるに相応しいものだった。時代も従来にない新しい政治家の台頭を求めていた。

 一方藤原氏が神官の家柄から政治の中枢に入りえたのは、偶然の幸運もあったであろうが、積極的に天皇家との婚姻関係を持ったからである。鎌足は二人の娘を天皇に嫁がせているし、不比等の娘・宮子は文武天皇の夫人に、又も一人の娘・光明子は首皇子(聖武天皇)の皇后となる。やがて生まれた安倍内親王は後の孝謙・称徳天皇であり、二代に亘る天皇の外戚の地位を不動のものにした。(は藤原氏の寺興福寺の遺品
168  701年には大宝律令が完成した。不比等が果たした役割で一番大きいのがこの律令の完成であろうと評される。この時不比等は正三位大納言になっていた。翌年には遣唐使が派遣された。703年から707年までの文武天皇時は藤原氏はやや牽制されていたが、文武没後、元明天皇になって、不比等は右大臣に就き、最後にして最大の事業・平城京遷都に取組む。
 平城遷都と共に自らの邸宅を平城京の東に隣接して建て、春日の勝地を選んで、氏寺・興福寺を建立した。

 720年、藤原不比等没す。高市皇子の子の長屋王が右大臣についたが、同じ日に不比等の長子・武智麻呂は中納言となり二階級特進で、従三位になった。房前、宇合、麻呂の弟たちも異例の昇進をしている。
 この強烈な個性を持つ四兄弟は、政界で揃って活躍をし、南家、北家、式家、京家の夫々一家を成した。これら四家が互いに競り合うことで、後に藤原家は巨大な勢力へと成長するのである。

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