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2012年12月 2日 (日)

倭国の興亡164: 持統から元明へ、不改常典

 遣唐使派遣、銭貨鋳造より時代は若干遡る。702年、12月持統太上天皇が死去した。その直前10月参河(三河)国へ最後の行幸をし、その後尾張・美濃・伊勢・伊賀と回り11月帰国している。この行幸は遠江まで足を延ばした可能性もあり、本質は軍事的示威行動との説もある。
 生前、まだ年若い文武天皇を補佐し、太上天皇としての実権により、藤原遷都と律令編纂を成し遂げ、王権の威信・安定に身命を賭したのだった。1年の殯宮儀礼の後、我が国初の火葬に付され、夫天武の大内山陵に合葬された。

 705年、大宝令で廃止の中納言が復活し、遣唐使の粟田真人ほか2名が就任。封戸(一定の戸数を与え、税をかける制)の復活、706年、畿外からの雇役徴発体制の整備など、慶雲年間に一連の政治改革が行われ、慶雲の改革と呼ばれる。
 706年文武天皇は難波に16日間の行幸をした。難波宮は副都として飛鳥の表玄関の役割をはたしていたが686年の大火でほぼ全焼していた。この行幸の後、諸王臣五位以上に遷都の事を議論させた。藤原京造営が終わったばかりで経費節減のため、難波宮を整備しようとの考えで、この遷都も慶雲の改革の一環として計画された。
164_2   ところが、難波行幸から戻って体調がすぐれなかった文武は翌707年25歳で他界した。文武の皇子・(オビト)皇子はまだ八歳、生前母・阿閇(アヘ)皇女に譲位の意向を示していた文武の意志により母が即位し、元明天皇となる。
 これら皇位継承は、天智天皇の定めた「天地日月のある限り永遠に改まる事のない恒久の規範(不改常典)」として定めた法典に則って(正当な皇統を継ぐべしとした法典)文武が即位したことを元明は強調し、その文武の遺志に基づく皇位継承をするので、不改常典は微動だにしないことを強調し即位した。
 ここまで元明が文武の皇位継承の正統性にこだわったのは来たるべき首皇子への皇位継承を念頭に置いたからである。今、姉持統と同じ道を歩みだそうとしていた。そして、持統と元明に共通の政策実行者がいた。藤原不比等である。不比等の娘・光明子はやがて首皇子に嫁ぎ、一時代を画すことになるのである。

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