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2012年12月22日 (土)

倭国の興亡170: 聖武天皇即位と長屋王の変

 724年2月、元正天皇が譲位し、首皇子が即位聖武天皇となった。父文武の死から、母、叔母2代の女帝を経て17年目の即位である。皇族の母を待たない皇子故の根回しに要した年月だったが、聖武の在位は26年に亘り、奈良時代最長の天皇となる。同日、長屋王は左大臣に昇進し、聖武及び藤原一族との関係は何れも良好であった。
170  聖武はやや神経質であったか、即位後、災害の発生を気にし、宮中や大寺での大規模な誦経・転読(経の要所の略読)を行い、鎮護国家の施策を次々と行った。その一方で行幸を繰り返し、又難波の宮の改作も着手している。(上図:長屋王邸跡発掘時)
 727年、光明子(不比等の娘)との間に待望の皇子が誕生した。しかし、1年足らずで世を去る。菩提を弔うため寺院(東大寺の前身)を建立した。この死を画期として時代は政争の時代へと転換する。この時期、天皇を警護する親衛隊・中衛府が設置され、長官に藤原前房が就いている。
170_2  翌
729年2月10日の夜、藤原宇合と左右衛子府、衛門府の次官らの指揮により軍隊が、左大臣長屋王邸を囲んだ。同時に鈴鹿・不破・愛発の3関は固関(閉鎖)された。軍隊派遣は中臣宮処東人らからの「長屋王は秘かに左道(妖術)を学び、聖武を呪詛し国家を傾けようとしている」という密告があったからである。翌11日に舎人親王らの使者が遣わされ長屋王を糾問した。その処断は過酷を極め、翌12日、長屋王は自邸で妻子に毒を飲ませ、自らも54歳の命を絶ったと伝えられる。(下図:続日本記の長屋王記述の部分)
 死後、妃の吉備内親王は無罪とし、通例の葬送を許可、長屋王は罪人であるが葬をいやしくしないこと、縁座は最小限にすることなどの勅が出された。
 9年後、東人があの密告は虚偽だったと明かしたと『続日本記』に記載され、
全くの冤罪であり、「長屋王の変」は謀略事件だったことが明らかにされた。

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