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2012年12月11日 (火)

倭国の興亡167: 初の女性皇太子が即位・元正女帝

 和銅年間末、約10年間近くかかった平城宮・京の造営が一段落し、715年の元日、平城宮大極殿にて朝賀の儀が執り行われた。これに合わせ、新羅の使者、陸奥・出羽の蝦夷、奄美・夜久(屋久)・度感(徳之島)からの朝貢があり、朱雀門の左右には鼓吹と騎兵が列立した。

 この年(715)、元明天皇は譲位する。前年9月、既に首(オビト)皇子は皇太子になっていたが、皇位を継いだのはその伯母・氷高内親王(文武の姉)で、親子2代の女帝誕生で元正天皇となる。氷高は36歳の独身の1品(最高位)内親王だ。
 既に15歳となった首皇子がいるに拘わらず何故氷高にしたか。元明は首皇子がまだ若く、政務を執れないと説明したが、父文武は既に15歳で即位している。色んな憶測があるが、真の理由は不明だ。又何故氷高だったのか、独身の内親王がいたこと自体不自然である
164_2   文武の夫人藤原宮子が病弱だったため、氷高(元正)が首の養母とされたという説が有力だ。また、正式に即位した天皇の母が皇族であり、しかもその母自身から皇位を譲り受けるには異論がない。即ち氷高の即位は、首皇子の即位の正当化の切り札だったのだ。
 ここまでして首皇子への継承は、草壁の弟の皇子たち(天武の子で皇位継承権者)が健在であったためである。そして、この皇位継承を実現させたのは首皇子の祖父にあたる藤原不比等であった。(図は164回掲載・系統図の再掲)

 こうして、氷高内親王は元正天皇として、724年に首皇子(聖武)に譲位するまで10年に亘り独身で皇位に在り、譲位後も聖武の母太上天皇として発言力を持ち続けた。
 元正天皇即位の翌年、716年藤原不比等と県犬養橘三千代の子・光明子は、天皇家と藤原家の結びつきを更に強固にするため、母違いの姉・宮子(文武の夫人)に続き、次世代の天皇たるべき首皇子の妃となり、父の広大な邸内に皇太子妃としての居宅を構えた。
 元正天皇は近江国府や美濃国府に行幸し、国司を集め歌舞奏上などさせながら、在地の郡司層ら地方官に律令国家の意識向上を図った。 

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