« 安倍政権発足 | トップページ | 年の瀬、椿を見つけた »

2012年12月27日 (木)

倭国の興亡172: 藤原4子政権と光明子立后

 729年、長屋王没後、不比等の長子は大納言に昇進。長屋王の変に対処した大納言・多治比池守、同・大伴旅人が死去、中納言・阿部広庭病気中、残る公卿は不比等の長男・武智麻呂、次男・房前の二人のみとなった。
1724  731年、弱体化した議政官の補任と強化が行われた。諸司の推薦により、藤原宇合(三男・式部卿)、多治比県守(池守の弟・民部卿)、藤原麻呂(四男・兵部卿)、鈴鹿王(長屋王の弟・大蔵卿)、葛城王(橘諸兄・左大弁)、大伴道足(安麻呂の子(旅人の弟か)・右大弁)が参議に任命され、房前を合せ7人の参議と、藤原武智麻呂・大納言、阿部広庭・中納言計9人の新体制が発足した。藤原武智麻呂を首班とする4兄弟を含む「藤原4子政権」がスタートしたのである。この四家は長男から順に、南家・北家・式家(式部卿)・京家(京職大夫)と呼ばれた。(上図4兄弟系図
 但し、737年天然痘の流行により、兄弟4人は相次いで亡くなった。しかし、この短い間、日本型律令制構築に一応の完成を見たことは高く評価される。その後のさらなる完成を目前に、律令制は崩壊し始めたのである。
172q  天平改元の729年8月、聖武天皇の夫人(ブニン)光明子(不比等の娘)が皇后になった。臣下の女性が天皇の正妻・皇后になったのはこれが史上初である。皇后は天皇万一の時、天皇に即位する可能性がある。故に、聖武天皇の勅も歯切れ悪く、元正の「功臣不比等の娘だから皇太子妃とした」との説明も皆を納得させていない。(下図藤原氏の氏神・春日大社)
 長屋王の変も、光明子立后に反対する長屋王を除くため仕組まれたというのが通説である。結果として、聖武天皇の政敵を駆逐し、藤原4兄弟とその姉妹の光明子を政治の表舞台に登場させ、760年に没するまでの31年間、政界の頂点に立っていたのは光明子その人だった。
 光明子の皇后宮は、当初皇太子の妃の居宅を構えた不比等邸宅の一部を改造したものと思われてきた。しかし、近年の資料群、取分け大量の二条大路発掘の木簡解読により、長屋王の邸宅の後を皇后宮として利用していたことが分かった。

|

« 安倍政権発足 | トップページ | 年の瀬、椿を見つけた »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/56403685

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡172: 藤原4子政権と光明子立后:

« 安倍政権発足 | トップページ | 年の瀬、椿を見つけた »