« 名残の紅葉と山茶花 | トップページ | 蜜柑が食べごろ »

2012年12月 8日 (土)

倭国の興亡166: 寧楽(奈良)の都 平城京

 前回の平城宮に続き、今回は唐・長安を模して造られ、我が国初めて74年間の長きに亘り王都として栄えた都・平安京を概観しよう。「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(ニオ)ふがごとく 今盛りなり」(太宰少弐・小野老(オイユ)と)詠われた如く、華やかな感じだが、作者は大宰府の役人で、遠くから平城京を理想化したことは否めない。
 平城京の基本構造は、朱雀門から南に延びる朱雀大路を挟んで東の左京西の右京に分かれ、約530m置きに大路が碁盤目状に走っていた。この大路に囲まれた一区画を「坊」と呼び、東西の並びを、南北をと呼ぶ。左京の1条から5条までは街区がさらに3坊分東に広がり、これを外京(ゲキョウ)と呼んだ。
166  坊は東西、南北3本ずつの少路によって16分割され、この1辺130m程度の小区画を「坪」と呼ぶ。この1坪は、現在の約5000坪に相当
 役人の宅地班給基準は、大臣で4坪(=現20,000坪)、4位クラスがその半分、五位クラスで1坪(約5,000坪)。因みに藤原不比等は十坪(=現5万坪)、藤原仲麻呂が8坪(=現4万坪)だったという。下級官人は現坪数換算では 300、150、最下位で75坪と位が下がるにつれ少なくなり且つ宮から遠い所を与えられた。宮まで約3kmあり、通勤に相当の時間を要した筈。

 住宅以外には、図示の如く寺院も多く、藤原京から移築されたものもある。又、図中の東市、西市は宮廷や日常業務に必要な各種物資や日常生活品など置かれ購入できた。物資の売買所であると共に貯蔵庫でもあった。
 平城の人口は、当初20万人程度と言われたが、最近は4~5万人程度だったと考えられている。勿論この外に、工事人夫や地方からの運搬人の非定住者が多かった。
 一般庶民の生活は苦しく、下級官人たちも生活苦に喘いでいたという説もある。従って文頭の「あおによし・・・」と詠われたのはごく少数の高級官人、貴族の世界であろう。強制的に移住させて作り上げた人工的な政治都市であり、一般住民は難渋な生活を強いられた。

|

« 名残の紅葉と山茶花 | トップページ | 蜜柑が食べごろ »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/56276533

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡166: 寧楽(奈良)の都 平城京:

« 名残の紅葉と山茶花 | トップページ | 蜜柑が食べごろ »