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2012年12月 6日 (木)

倭国の興亡165: 平城京遷都

 707年で、文武の葬礼儀式終了を待ち、平城遷都への体制が動き出す。和銅(自然銅)献上があると、すぐ翌年(708年)年号を慶雲から和銅に改め、元明天皇・藤原不比等による銭貨「和同開珎」発行と平城遷都の準備が始まる。
165  富本銭が古いことを認識させられ、又新京造営の労働力への支払いと諸物資調達に大量の銭貨の必要が生じた。708年5月和銅銀銭、8月に和銅銅銭を発行。翌709年より銀銭使用を制限し、8月には銀銭を廃止した。
 711年、蓄銭叙位法が施行され、一定量の銭を蓄えると位階がもらえる制を実施し、銭貨への認識を高め、流通増加を図った。

 一方708年2月平城京への遷都の詔が出た。9月整地が始まる。選ばれた場所は陰陽思想の四禽に適う「東に川(青龍)、南に道(百虎)、南に池(朱雀)、北に山(玄武)」の場所、平城山(ナラヤマ)の麓の丘陵地である。
 尚、この地には市庭古墳と神明古墳があったが、709年「古墳あればきちんと破壊しないように埋め戻すこと」との勅がでているが、これは古墳があっても関係なく土地造成せよとの意からであった。2年後遷都した。
165_2  平城宮特徴は宮域が東に張り出した部分を持ち、大極殿・朝堂院が2つある事である(左図)。遷都当初は、朱雀門の北側に大極殿・朝堂院があった事が判明しており(後に恭仁京に移築)、後に(745年壬生門北側に新たに大極殿(第二次大極殿と呼ぶ)があることがわかった。同時に内裏(天皇の住まい)や朝堂院(成務空間)も移転している。
 尚第二次大極殿の下層には掘立柱の遺構が発見されているが、これは第一次大極殿が元日朝賀や即位式、外国使謁見などの儀式空間で、第二次の方が日常の政務空間だったようで、長安城の大極殿と大明官含元殿を模したものと思われる。東張出部分の東夷院は皇太子がいる時の東宮、不在時は宮内離宮として利用された。尚、東の県犬養門の外に不比等が館を構えた。県犬養は不比等の妻・県犬養橘三千代に由来する。 

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