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2012年12月

2012年12月28日 (金)

年の瀬、椿を見つけた

 ドタバタ歳末選挙で、落ち着かぬ年の瀬となった。昨日スタートした安倍内閣に対する毎日新聞の世論調査で、内閣支持率52%と出ている。一次安倍内閣が62%だったから、それより下回ったわけだ。衆院で294議席を獲得したが、安倍内閣に対する期待感があまりないようだし自民政権で国民生活がよくなるかに対し、「よくなる」「変わらない」がともに48%だという。議席獲得数と、内閣支持率は別だと云う事、よくよく認識の上、施政に当って欲しいものだ。
 ところで、写真は今は山茶花ばかりが咲き誇っているので、椿をと思い探し回って漸く見つけた紅白の椿(と思っているが・・・。間違い?)。椿は花の蕊が山茶花と異なるので、それを目安に撮ったもの。
Photo  ツバキ(紅)。椿は開花期が短く、花がボトリと落ちる点が嫌われてか、庭植えされているのが少ないし、まだ開花時期には早すぎるせいで、殆どみつからず漸く見つけたのが、この一輪。勿論蕾は沢山付いている。
Photo_2  ツバキ(白)。我が家の庭の椿も白だが、未だ開花してない。これはたまたま道端に植わっていたもの。私の自動焦点カメラは白、ついで黄色に対して自動焦点が効き難く、いつもピンボケになる

  本年の当ブログは、これを以て休止とし、年明け5日より、再開します。本年中の御来訪を深謝し、来年もご愛顧頂きますよう願いあげます。

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2012年12月27日 (木)

倭国の興亡172: 藤原4子政権と光明子立后

 729年、長屋王没後、不比等の長子は大納言に昇進。長屋王の変に対処した大納言・多治比池守、同・大伴旅人が死去、中納言・阿部広庭病気中、残る公卿は不比等の長男・武智麻呂、次男・房前の二人のみとなった。
1724  731年、弱体化した議政官の補任と強化が行われた。諸司の推薦により、藤原宇合(三男・式部卿)、多治比県守(池守の弟・民部卿)、藤原麻呂(四男・兵部卿)、鈴鹿王(長屋王の弟・大蔵卿)、葛城王(橘諸兄・左大弁)、大伴道足(安麻呂の子(旅人の弟か)・右大弁)が参議に任命され、房前を合せ7人の参議と、藤原武智麻呂・大納言、阿部広庭・中納言計9人の新体制が発足した。藤原武智麻呂を首班とする4兄弟を含む「藤原4子政権」がスタートしたのである。この四家は長男から順に、南家・北家・式家(式部卿)・京家(京職大夫)と呼ばれた。(上図4兄弟系図
 但し、737年天然痘の流行により、兄弟4人は相次いで亡くなった。しかし、この短い間、日本型律令制構築に一応の完成を見たことは高く評価される。その後のさらなる完成を目前に、律令制は崩壊し始めたのである。
172q  天平改元の729年8月、聖武天皇の夫人(ブニン)光明子(不比等の娘)が皇后になった。臣下の女性が天皇の正妻・皇后になったのはこれが史上初である。皇后は天皇万一の時、天皇に即位する可能性がある。故に、聖武天皇の勅も歯切れ悪く、元正の「功臣不比等の娘だから皇太子妃とした」との説明も皆を納得させていない。(下図藤原氏の氏神・春日大社)
 長屋王の変も、光明子立后に反対する長屋王を除くため仕組まれたというのが通説である。結果として、聖武天皇の政敵を駆逐し、藤原4兄弟とその姉妹の光明子を政治の表舞台に登場させ、760年に没するまでの31年間、政界の頂点に立っていたのは光明子その人だった。
 光明子の皇后宮は、当初皇太子の妃の居宅を構えた不比等邸宅の一部を改造したものと思われてきた。しかし、近年の資料群、取分け大量の二条大路発掘の木簡解読により、長屋王の邸宅の後を皇后宮として利用していたことが分かった。

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2012年12月26日 (水)

安倍政権発足

 今日国会が開会され、野田政権辞職、ついで首班指名、組閣と言う段取りで、夕刻から正式の組閣が始まり、安倍政権が発足することになる。選挙の時の安倍さんの政見とは若干異なり、実際の政権のとる政策はややトーンダウンしそうだ。参院選挙をにらみ、公明との連立を組むが故との理由はわかるが、やや選挙公約を違えてもやはり党利が優先しそうだ。選挙民を愚弄してないか。誰のための政治かを忘れると、又国民は見放すことになる。
 年の瀬に見つけた花を紹介。
Photo_2  ローバイ(蝋梅)。真冬並みの寒さになったせいか、早やローバイが咲き始めた。これはソシンローバイ(素心蝋梅)と言う一番多くみられるもの。花全体が黄色が特徴。手を掛けずとも、又日陰でもよく育つせいか、庭木にはよく使われている。
Photo_3  ミニバラ(ミニ薔薇)。鉢植えにされたミニバラ。清楚で可憐な感じが良かったので撮った。最近は場所も取らず、いろんな薔薇が楽しめるミニバラが人気があるそうだ。これは鉢に数種の花が寄せ植えされていたもの。

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2012年12月25日 (火)

倭国の興亡171: 平城京の下級官人の生活

 8世紀前半頃の平城京における下級官人の生活はどんなものであったか、おびただしい木簡の発掘や、正倉院文書から、最近かなり詳しく明らかになった。
 先ず役人の数だが、位階の1位から5位(14級)までが貴族で150人前後、6位以下の下級官人(16階級)が約1万人弱、さらにその下に無位の下働きが約1万人いた。当時の平城京の人口が6万人ほどだから、役人の比率が高い。
171_3  この貴族と下級官人の間には天と地ほどの差があった。例えば給料(現価値に換算)は、正一位年間約3億円、正2位約2億円、正3位1億円強そして従5位下で約2千万円。ところがその下の正6位では170万円、最下位の初位下は60万円と、5位と6位では大差がついた。
 当然努力し何とか5位まで上りたいと思っても、現実には下級官人は6位どまりであった。勿論昇給のための勤務評定制度はあって、能力、勤務態度は勿論ながら、人徳、精神の清らかさの外、家柄などまで審査があり、5位への昇進はできなかった。(書き方の練習をした木簡)
 勤務時間、日数では1年間に日勤270日に加え、夜勤が250日あり、3ヶ月働き休日2~3日という状態で、朝3時には家を出るのが普通だった。
171_2  経済的にはインフレが亢進し利息が1割と高かったが、借金が多かったようだ。(借用書、担保も書いてある)。担保には家、土地が使われたようだが、下級官人でも200㎡の土地が支給された。但し当時の家族人数は複合家族で人数は多かった。出身地は当然畿内が多く、特に山背国愛宕郡出身が多かった。
 能力は読み書きが最低条件だが下級官人は自分で勉強せねばならない。5位以上の貴族は養成機関として大学があった
 平安時代には下級官人の給料も払えなくなり、6位以下は全くの名目だけとなったが、奈良時代にはまだよくて、現代人に近い状態だったと思える。下級官人が厳しいと言っても、畿外の農民はまだ藁葺の掘立小屋での生活が普通の時代であるから、たとえ借金してでも、官人への希望は多かったのである。

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2012年12月23日 (日)

何と慌しい歳末よ

 組閣を前に慌しい動きの自民。対して次期党首選期日が決まらない民主。党内方針が揺れる維新。政界も今後に向けた動きで落ち着かず、何はともあれ民生を安定してほしいものだ。その中で、福岡の病院で、幹細胞を使用した治療が行われ、韓国から月500人もの人が治療に来ているという。未だ治療への可否が不明の段階で、政府は大慌てで、今後の幹細胞の医療への使用を規制する立法化を図ると云う。ことが急がれる事項が山積する中、政争どころではない。
 寒い中、咲いていた花2点。
Photo  キダチアロエ(木立Aloe)。近辺の昔からの家には、大概このキダチアロエが植わっていて、今頃花盛り。勿論アロエは花を観賞するためでなく、を観賞し、且つ「医者いらず」と言われるほど何にでも効くと言われる「家庭薬代わり」に植えてあるのだ。
Photo_2  名称不明。公園の中に咲いていたこの白い花は清楚で綺麗な花だが、この花に似つかぬ小さな葉の木である。何とか名前を知りたいと、ネットで調べた範囲では全然わからない。ご存じの方はお教えください。

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2012年12月22日 (土)

倭国の興亡170: 聖武天皇即位と長屋王の変

 724年2月、元正天皇が譲位し、首皇子が即位聖武天皇となった。父文武の死から、母、叔母2代の女帝を経て17年目の即位である。皇族の母を待たない皇子故の根回しに要した年月だったが、聖武の在位は26年に亘り、奈良時代最長の天皇となる。同日、長屋王は左大臣に昇進し、聖武及び藤原一族との関係は何れも良好であった。
170  聖武はやや神経質であったか、即位後、災害の発生を気にし、宮中や大寺での大規模な誦経・転読(経の要所の略読)を行い、鎮護国家の施策を次々と行った。その一方で行幸を繰り返し、又難波の宮の改作も着手している。(上図:長屋王邸跡発掘時)
 727年、光明子(不比等の娘)との間に待望の皇子が誕生した。しかし、1年足らずで世を去る。菩提を弔うため寺院(東大寺の前身)を建立した。この死を画期として時代は政争の時代へと転換する。この時期、天皇を警護する親衛隊・中衛府が設置され、長官に藤原前房が就いている。
170_2  翌
729年2月10日の夜、藤原宇合と左右衛子府、衛門府の次官らの指揮により軍隊が、左大臣長屋王邸を囲んだ。同時に鈴鹿・不破・愛発の3関は固関(閉鎖)された。軍隊派遣は中臣宮処東人らからの「長屋王は秘かに左道(妖術)を学び、聖武を呪詛し国家を傾けようとしている」という密告があったからである。翌11日に舎人親王らの使者が遣わされ長屋王を糾問した。その処断は過酷を極め、翌12日、長屋王は自邸で妻子に毒を飲ませ、自らも54歳の命を絶ったと伝えられる。(下図:続日本記の長屋王記述の部分)
 死後、妃の吉備内親王は無罪とし、通例の葬送を許可、長屋王は罪人であるが葬をいやしくしないこと、縁座は最小限にすることなどの勅が出された。
 9年後、東人があの密告は虚偽だったと明かしたと『続日本記』に記載され、
全くの冤罪であり、「長屋王の変」は謀略事件だったことが明らかにされた。

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2012年12月21日 (金)

年末、あわただしいなか、寒さ厳しく

 組閣前に、安倍-白川会談で、物価上昇2%を前提とした金融緩和策をとることに概ね合意したとの報道があり、日銀への政府介入を強く印象付けた。勿論安倍政権は未だ発足してないから、政府介入は当らないものの、日銀が政府意向を汲むことへの危惧を主張する向きは多い。白川さんには政権移動に係らず金融政策に対する自己の信念を貫いて欲しいものだ。
 安倍さんも、組閣に向けて、参院選を視野に、自分の信念を随分押し曲げて対処しようとされているような報道があり、選挙時の勇ましいご意見が窄まりつつある感が強い。極端な変容は、選挙民たる国民を馬鹿にしていることだと思うが・・・。
 今年一番の寒さを迎え、花たちも縮こまったと思いきや意外な花も咲いている。
Photo  :先ずはスイセン(水仙)。これは季節の花で、今から来春4月頃まで咲く花だが、余りにも急激な寒さの為か、余り見かけない。写真は昔からある日本水仙。最近は品種改良により、ラッパ水仙、大杯水仙、八重水仙等々園芸種が多くなってきたのでやがてこれらも目に止まり始めるだろう。
Photo_2  ペラペラヨメナ(ぺらぺら嫁菜)。。花期は5~11月で季節の花ではないが、これは、今頃珍しく咲いていた。中央アメリカ原産で、日本に帰化したのは新しく、1950年頃、移入された帰化植物である。この花、咲き始めが白く、段々ピンクから赤に変化するので、紅白の花が同時に観れるところから、源氏・平家に見立て、弁慶小菊とも呼ばれる。

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2012年12月18日 (火)

自民は圧勝でない? 深まる紅葉

 昨日はTV各社、選挙後につき政治評論家たちの”お話”が放映された。圧倒的多数を獲得得した自民党であるが、これは自民党の圧勝とは言えないと言うのが大方の御意見である。よもやこれほどの大差で勝つとは思っていなかったというのが正直なところだが、その勝因はとなると、決して国民の圧倒的支持によるとは言えないと言うものだ。
 この辺り、石破自民党幹事長が、この選挙結果は決して自民党を支持するというものではなく、他に支持すべき党が無いことが原因で、浮動層の票が割れたこと、投票率が低かったことの結果であり、真に国民が求める政治に向かって自民党は謙虚に取り組む必要があると言っている。このことは比例票得票比率が如実に表している
Photo  熱い筈の選挙戦がさめた結果であり、寒さが一層進む中、紅葉も終りに近づいた
 :これは花ではない。緑から一気に深紅となったツツジである。気温変化により、紅葉の仕方も色々あるものだと感心もし、その色の変化の不思議さに驚いた次第である。
Photo_2  :これは黄葉木の名前は判らぬが、バスが発着する終点のバス停の植え込みが。こんな黄色になって、辺りに華やかな雰囲気をもたらしていた。我が家の紫陽花も同様に一様の黄色に色づき、それはそれで美しいので、毎日楽しんでいる。

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2012年12月17日 (月)

倭国の興亡169: 長屋王登場とその政権誕生

169  1986年9月、平城宮東南の左大臣長屋王邸跡の工事に伴う発掘調査により、3万5千点に及ぶ木簡が出たことにより、当時の諸々の史実が裏付けられた。
 長屋王は天武天皇の長子・高市皇子の子である。母は天智天皇の娘・御名部皇女で、血筋では後に聖武天皇となる首皇子に勝るとも劣らず、正妻は草壁皇子と元明天皇(叔母)の末子である。
 その長屋王が歴史に初登場するのは、704年の叙位で3ランク高い正四位上の位階についた時で、年齢は既に29歳だった。これは、701年に文武の後継者として首皇子が誕生したので、未だ皇位継承者の有力候補だったといえる長屋王を、皇位継承者から外すための措置で、官人への道を歩む。714年、首皇子が皇太子となり、長屋王即位の芽が無くなった時点で、親王扱いとなっている。(:木簡参照)
 長屋王が初めての官途・宮内卿に任じられたのは709年、従三位に昇叙した時である。翌年、式部卿へ横滑りし、718年には大納言に任じられ、議政官に列するまで、式部省で地位を高めた。
169_2  720年、不比等の死の翌日、隼人征討に遠征中の大伴旅人を急遽召還し、長屋王と共に不比等死後の対応に当らせた。元明は不比等の特別の葬送礼を許している。明けて721年長屋王が右大臣、多治比池守が大納言に昇任し、不比等の長男武智麻呂が中納言として政界入りを果たし、長屋王首班政権が誕生した。(:長屋王邸復元模型
 同年5月元明太上皇が病に伏し、不比等の次男・房前を内大臣に任じて、12月61歳の生涯を閉じた不比等と元明の遺産は律令国家の手になる歴史書「日本書紀」の編纂と、養老律令の編纂開始であろう。
 722年長屋王政権により顕著な政策がいくつか遂行される。1)陸奥出羽按察使館内の調・庸を免除し、後狭布という布を課す 2)百万町歩開墾計画で、人民に10日間ずつの労役を課し開墾を奨励 3)出挙(消費貸借)の利息を3割に軽減 4)鎮所(陸奥と大宰府)への兵糧稲穀の運搬奨励(税制改革)などである。
 723年には三世一身法(開墾した土地に用水路・池を造成した場合3世代土地私有を認める)で開墾奨励をした。これにより、開墾田を国家が掌握できた。

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2012年12月16日 (日)

総選挙で日本は変われるか

 今回の選挙は、単なる政権争いではない。今後の日本が如何にあるべきかを明確に描き切ったグランドデザインを提示できた政党が無い。いや当事者は描き切ったと思っているだけで、国民に共感を覚えさせ得たというものがあったろうか。取分け、国境問題、経済問題、原発問題は国の根幹を揺るがす問題であり、強力な行政力を必要とする。果たして国民はどんな審判を下すだろうか。
Photo  寒い中、野草の花が少ないが、道端の野菊が元気に花をつけていて、心和ませてくれる。ところで、元来、菊には「野菊」という野生種の植物はないという。
 日本にはキクに似た花が非常に多くそれらを含め、野に咲くキクらしきもの一切を称して野菊という
Photo_4  調べてみると、野菊の仲間とされる植物は213種ある。一般的に菊とされるものは、ガーベラ、ヒマワリ、アキノキリンソウなどのキク科植物を含め、アザミ属、ニガナ属、ヨメナ属、シオン属、キク属が主なもので、ヨメナ属が最近見られるものの大部分だそうである。
Photo_3  因みに、伊藤左千夫の「野菊の墓」の野菊はカントウヨメナのことらしい。
 
 
 
 

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2012年12月15日 (土)

倭国の興亡168: 藤原一族躍進への不比等の野望

 藤原不比等は鎌足の次男として659年に生まれた。長男・定恵は学問好きで、学僧として入唐、帰国後間もなく23歳で急死。兄の死で、不比等の人生は一変する。父・鎌足は不比等11歳のとき他界。異母姉妹が天武天皇の夫人となったものの、不比等が表舞台に立つのに20年の歳月を要す。
 幼少時は山科の田辺史大隅の家で育てられた。田辺史は渡来系の氏族で、文人として高名な家だったと思われる。このような環境は律令国家建設を担う政治家を育てるに相応しいものだった。時代も従来にない新しい政治家の台頭を求めていた。

 一方藤原氏が神官の家柄から政治の中枢に入りえたのは、偶然の幸運もあったであろうが、積極的に天皇家との婚姻関係を持ったからである。鎌足は二人の娘を天皇に嫁がせているし、不比等の娘・宮子は文武天皇の夫人に、又も一人の娘・光明子は首皇子(聖武天皇)の皇后となる。やがて生まれた安倍内親王は後の孝謙・称徳天皇であり、二代に亘る天皇の外戚の地位を不動のものにした。(は藤原氏の寺興福寺の遺品
168  701年には大宝律令が完成した。不比等が果たした役割で一番大きいのがこの律令の完成であろうと評される。この時不比等は正三位大納言になっていた。翌年には遣唐使が派遣された。703年から707年までの文武天皇時は藤原氏はやや牽制されていたが、文武没後、元明天皇になって、不比等は右大臣に就き、最後にして最大の事業・平城京遷都に取組む。
 平城遷都と共に自らの邸宅を平城京の東に隣接して建て、春日の勝地を選んで、氏寺・興福寺を建立した。

 720年、藤原不比等没す。高市皇子の子の長屋王が右大臣についたが、同じ日に不比等の長子・武智麻呂は中納言となり二階級特進で、従三位になった。房前、宇合、麻呂の弟たちも異例の昇進をしている。
 この強烈な個性を持つ四兄弟は、政界で揃って活躍をし、南家、北家、式家、京家の夫々一家を成した。これら四家が互いに競り合うことで、後に藤原家は巨大な勢力へと成長するのである。

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2012年12月14日 (金)

木瓜がちらほら

 寒い中、木瓜がちらほら咲き始めた。咲き始めたという表現は正しいのかな? 今頃から花をつけ始めるが、まるで狂い咲き(返り花)のように咲くだけで、本格的には3~5月頃満開となる。それまでのチラホラ咲は何なのか
Photo  ボケ(木瓜)。瓜のような実をつけるところから木瓜(もっけ)と呼ばれ、それがボケとなった由。この木以外にもチラホラ咲を2,3本見掛けたので、この咲き方が普通なのかな?
Photo_2  山の紅葉。近くの低い山で、毎年紅葉するが、今年は綺麗な紅葉に成る前に冬枯れの観を呈している。漸く紅葉を始めた頃、急激な寒さ到来のため、枯れ始めたかと思っている。今冬は3寒4温とはならず、10寒4温で、今日明日の寒の緩みの次は、年末まで寒いとの予報士の話である。

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2012年12月12日 (水)

選択が難しい政権党

 連日、選挙に絡む記事が多くて、その中に、各政党の主張点や公約が記載されているが、正直言って、政党の数が多いだけに、重なり合う部分が多く、これら公約・主張点だけでの比較で選ぶのが難しい。夫々の政党の離合集散を知っているだけに、言っていることが2転3転している事が解り、選ぶのが本当に難しい
 政党は別にして、個人の評価となると、これまた新人が多く、選挙区内の支持したい人の事ががよく判らない。印刷物や演説ではいいことしか言わないものだ。
 今回の選挙は、投票率も悪くなるだろうし、その結果も民意を表すのか疑問である。
 ところで今、9時45頃に、北朝鮮が”ミサイル”を発射し、10時1分、沖縄上空を通過し、10時5分頃、フィリッピン東海上に落下したとのニュースが出ている。 
 今日は冬枯れの中に目立つものを掲載。
Photo  ブーゲンビリア。和名はイカダカズラ(筏葛)。今頃民家の庭などに咲いているこの青紫色の木は、野生種に近いもので、福岡あたりでも今頃咲いている。(園芸種は室内でないと駄目)。花に見えるのは包葉であり、花は中にある小さく白いものが花である。
Photo_2  カラスウリ(烏瓜)。花のないこの時期、この赤い実が目立つ。烏瓜の実である。花は7-9月頃の日暮れ頃開き、明け方には萎むので、あまり見かけられない。白い花で、蝙蝠などの夜行動物に、受粉のため、目立つようになっているとか。

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2012年12月11日 (火)

倭国の興亡167: 初の女性皇太子が即位・元正女帝

 和銅年間末、約10年間近くかかった平城宮・京の造営が一段落し、715年の元日、平城宮大極殿にて朝賀の儀が執り行われた。これに合わせ、新羅の使者、陸奥・出羽の蝦夷、奄美・夜久(屋久)・度感(徳之島)からの朝貢があり、朱雀門の左右には鼓吹と騎兵が列立した。

 この年(715)、元明天皇は譲位する。前年9月、既に首(オビト)皇子は皇太子になっていたが、皇位を継いだのはその伯母・氷高内親王(文武の姉)で、親子2代の女帝誕生で元正天皇となる。氷高は36歳の独身の1品(最高位)内親王だ。
 既に15歳となった首皇子がいるに拘わらず何故氷高にしたか。元明は首皇子がまだ若く、政務を執れないと説明したが、父文武は既に15歳で即位している。色んな憶測があるが、真の理由は不明だ。又何故氷高だったのか、独身の内親王がいたこと自体不自然である
164_2   文武の夫人藤原宮子が病弱だったため、氷高(元正)が首の養母とされたという説が有力だ。また、正式に即位した天皇の母が皇族であり、しかもその母自身から皇位を譲り受けるには異論がない。即ち氷高の即位は、首皇子の即位の正当化の切り札だったのだ。
 ここまでして首皇子への継承は、草壁の弟の皇子たち(天武の子で皇位継承権者)が健在であったためである。そして、この皇位継承を実現させたのは首皇子の祖父にあたる藤原不比等であった。(図は164回掲載・系統図の再掲)

 こうして、氷高内親王は元正天皇として、724年に首皇子(聖武)に譲位するまで10年に亘り独身で皇位に在り、譲位後も聖武の母太上天皇として発言力を持ち続けた。
 元正天皇即位の翌年、716年藤原不比等と県犬養橘三千代の子・光明子は、天皇家と藤原家の結びつきを更に強固にするため、母違いの姉・宮子(文武の夫人)に続き、次世代の天皇たるべき首皇子の妃となり、父の広大な邸内に皇太子妃としての居宅を構えた。
 元正天皇は近江国府や美濃国府に行幸し、国司を集め歌舞奏上などさせながら、在地の郡司層ら地方官に律令国家の意識向上を図った。 

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2012年12月10日 (月)

蜜柑が食べごろ

 冷たい風が吹いている。真冬という言葉を聞くと余計に寒くなる。寒さのせいか、何か不具合が発生したか、北朝鮮のミサイル(人工衛星?)の発射は見合されているという。国際間緊張を和らげる努力がなされている中でのこの騒動は何を意図したものか?
 そんな寒い中、大豊作の柑橘類は食べごろを迎え、一番おいしい時期である。
Photo  コミカン(小蜜柑)。桜島小蜜柑或いキシュウミカンともいう。2~3cm位の可愛い蜜柑で、食べても甘いが、殆どは観賞用に植えられているようだ。
Photo_2  ウンシュウミカン(温州蜜柑)。昔からあったようだが、江戸中期以前は、種なし蜜柑の温州は、子種を絶やすとして嫌われたが、江戸後期からは美味しいのと、種のない利便性で人気が出たとか。6~8cm大であるが、木により大小様々である。
Photo_3  ナツミカン(夏蜜柑)。これはまだ食べ頃ではないが、きれいに色づき、大きい樹に沢山なっている風景は矢張り風物詩であろう。8~12cm位でもっと大きいのもある。

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2012年12月 8日 (土)

倭国の興亡166: 寧楽(奈良)の都 平城京

 前回の平城宮に続き、今回は唐・長安を模して造られ、我が国初めて74年間の長きに亘り王都として栄えた都・平安京を概観しよう。「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(ニオ)ふがごとく 今盛りなり」(太宰少弐・小野老(オイユ)と)詠われた如く、華やかな感じだが、作者は大宰府の役人で、遠くから平城京を理想化したことは否めない。
 平城京の基本構造は、朱雀門から南に延びる朱雀大路を挟んで東の左京西の右京に分かれ、約530m置きに大路が碁盤目状に走っていた。この大路に囲まれた一区画を「坊」と呼び、東西の並びを、南北をと呼ぶ。左京の1条から5条までは街区がさらに3坊分東に広がり、これを外京(ゲキョウ)と呼んだ。
166  坊は東西、南北3本ずつの少路によって16分割され、この1辺130m程度の小区画を「坪」と呼ぶ。この1坪は、現在の約5000坪に相当
 役人の宅地班給基準は、大臣で4坪(=現20,000坪)、4位クラスがその半分、五位クラスで1坪(約5,000坪)。因みに藤原不比等は十坪(=現5万坪)、藤原仲麻呂が8坪(=現4万坪)だったという。下級官人は現坪数換算では 300、150、最下位で75坪と位が下がるにつれ少なくなり且つ宮から遠い所を与えられた。宮まで約3kmあり、通勤に相当の時間を要した筈。

 住宅以外には、図示の如く寺院も多く、藤原京から移築されたものもある。又、図中の東市、西市は宮廷や日常業務に必要な各種物資や日常生活品など置かれ購入できた。物資の売買所であると共に貯蔵庫でもあった。
 平城の人口は、当初20万人程度と言われたが、最近は4~5万人程度だったと考えられている。勿論この外に、工事人夫や地方からの運搬人の非定住者が多かった。
 一般庶民の生活は苦しく、下級官人たちも生活苦に喘いでいたという説もある。従って文頭の「あおによし・・・」と詠われたのはごく少数の高級官人、貴族の世界であろう。強制的に移住させて作り上げた人工的な政治都市であり、一般住民は難渋な生活を強いられた。

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2012年12月 7日 (金)

名残の紅葉と山茶花

 急に冬がやってきて、今日は暦の上で「大雪」のせいでもあるまいが、九州北部の山間部では初雪が報じられた。今年の紅葉は遅く、冬が早いものだから、ゆっくり鑑賞する暇もなかった気がする。そこで最近名残の紅葉を撮ったものの紹介と共に早くも満開近い山茶花
Photo  ハゼ(櫨)。住宅地の手前の浅い谷間にある大きな櫨の木。日当たりが良くないせいか、紅葉するのが遅く、世間の紅葉が終わった頃色づいた。但し雨が少なく、ここは乾燥気味の地で、葉が少し萎れているのもなぜかあわれ。
Photo_2  モミジ(紅葉)。この様に透かして見る紅葉が好きだが、これも雨が少なく、急な冷え込みで、葉が縮れて見苦しいのが多く、透かし紅葉がきれいに見えるところが少なかった。当然”赤さ”も澄んだ真っ赤なのが少なかったような気がする。
Photo_3  サザンカ(山茶花)。今時分、あちこちの山茶花が一斉に花開き、きれいな季節になって来た。山茶花は次から次と咲き続けるので、春先まで見られるが、散り始めると飽きてくるのと花が汚損され汚くなる。やはり、花は美しいうちに散る方が風情がある

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2012年12月 6日 (木)

倭国の興亡165: 平城京遷都

 707年で、文武の葬礼儀式終了を待ち、平城遷都への体制が動き出す。和銅(自然銅)献上があると、すぐ翌年(708年)年号を慶雲から和銅に改め、元明天皇・藤原不比等による銭貨「和同開珎」発行と平城遷都の準備が始まる。
165  富本銭が古いことを認識させられ、又新京造営の労働力への支払いと諸物資調達に大量の銭貨の必要が生じた。708年5月和銅銀銭、8月に和銅銅銭を発行。翌709年より銀銭使用を制限し、8月には銀銭を廃止した。
 711年、蓄銭叙位法が施行され、一定量の銭を蓄えると位階がもらえる制を実施し、銭貨への認識を高め、流通増加を図った。

 一方708年2月平城京への遷都の詔が出た。9月整地が始まる。選ばれた場所は陰陽思想の四禽に適う「東に川(青龍)、南に道(百虎)、南に池(朱雀)、北に山(玄武)」の場所、平城山(ナラヤマ)の麓の丘陵地である。
 尚、この地には市庭古墳と神明古墳があったが、709年「古墳あればきちんと破壊しないように埋め戻すこと」との勅がでているが、これは古墳があっても関係なく土地造成せよとの意からであった。2年後遷都した。
165_2  平城宮特徴は宮域が東に張り出した部分を持ち、大極殿・朝堂院が2つある事である(左図)。遷都当初は、朱雀門の北側に大極殿・朝堂院があった事が判明しており(後に恭仁京に移築)、後に(745年壬生門北側に新たに大極殿(第二次大極殿と呼ぶ)があることがわかった。同時に内裏(天皇の住まい)や朝堂院(成務空間)も移転している。
 尚第二次大極殿の下層には掘立柱の遺構が発見されているが、これは第一次大極殿が元日朝賀や即位式、外国使謁見などの儀式空間で、第二次の方が日常の政務空間だったようで、長安城の大極殿と大明官含元殿を模したものと思われる。東張出部分の東夷院は皇太子がいる時の東宮、不在時は宮内離宮として利用された。尚、東の県犬養門の外に不比等が館を構えた。県犬養は不比等の妻・県犬養橘三千代に由来する。 

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2012年12月 5日 (水)

多々良河畔冬の風物誌

 寒くなって、多々良川河口には渡り鳥など飛来している風物が見れるかと思い、岸辺を散策してみた。干潮時でなかったので、鴨や海猫の群舞は見れなかったが、以下冬の風物を撮ってきた。
Photo  アオサギ(青鷺)。国内のアオサギは、夏に北海道で繁殖し、冬には越冬のため南下し福岡にも飛来する。本州、四国では周年生息するのも居る由。白鷺より大きく、全長約90cm、翼開帳時は160cm前後ある葦の中で、じーと餌を待っている姿は冬の風物誌。
Photo_2  クロサギ(黒鷺)。白鷺より小ぶりで65cm前後。本州以南に生息。当地では冬に飛来し、何故この場所にはいつも3~5羽が羽を休めている。それで飛び立った瞬間が珍しく撮ったもの。
Photo_3  ヤドリギ(寄生木)。河辺の名前を知らぬ宿主に、こんなに大きなヤドリギが宿生しているのを見て驚き。ヤドリギは根を宿主の幹に食い込ませ、栄養分や水分を横取りして生きているという「なまくら」な植物。広葉樹の葉が落ちて、冬季にはよく目立つ、これも冬の風物である。

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2012年12月 3日 (月)

国道トンネル天井板崩落

 昨日のこの事故、なんとも言いようのない無念な事故である。1トンもあるコンクリート板が吊ってあるとは知らなかったが、多分鋼材を使っていたと思われるが、年数が立てば劣化することは判っている筈。点検予定だったとのコメントに、余計に怒りを覚える。不特定多数の人が利用する交通路の諸設備には、万全の保全が必要なことは判っているはずと思えば余計腹立つ。
 それにしても、多分同時に工事されたと思われる、隣接の下りトンネル何故すぐに点検しなのだろうか。同様の事故が起る可能性が高いと思うが・・・。
 今日の写真はちょっと変わった花を掲載。
Photo  コキア。別名ホーキグサ。最近見るようになった花で、近くでは国立海ノ中道公園に群生しており一面に真っ赤な花が咲いている。これは近くの小さな公園にポツンと一本植わっているもので、つい先日まで緑色だったのが急に色づき赤くなった。中国原産で、10世紀に渡来したという昔からの花。
Photo_2  ショウジョウソウ(猩々草)。これは11月下旬に撮った花だが、名前が判らず今日やっとアップ。緑のバイオリン型の葉の上に、赤い苞葉がある。その上の緑色の丸い粒々が花で小さな白い花をつける。園芸種で、夏から秋に花をつけるが、観葉種としても植えられているようだ。

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2012年12月 2日 (日)

倭国の興亡164: 持統から元明へ、不改常典

 遣唐使派遣、銭貨鋳造より時代は若干遡る。702年、12月持統太上天皇が死去した。その直前10月参河(三河)国へ最後の行幸をし、その後尾張・美濃・伊勢・伊賀と回り11月帰国している。この行幸は遠江まで足を延ばした可能性もあり、本質は軍事的示威行動との説もある。
 生前、まだ年若い文武天皇を補佐し、太上天皇としての実権により、藤原遷都と律令編纂を成し遂げ、王権の威信・安定に身命を賭したのだった。1年の殯宮儀礼の後、我が国初の火葬に付され、夫天武の大内山陵に合葬された。

 705年、大宝令で廃止の中納言が復活し、遣唐使の粟田真人ほか2名が就任。封戸(一定の戸数を与え、税をかける制)の復活、706年、畿外からの雇役徴発体制の整備など、慶雲年間に一連の政治改革が行われ、慶雲の改革と呼ばれる。
 706年文武天皇は難波に16日間の行幸をした。難波宮は副都として飛鳥の表玄関の役割をはたしていたが686年の大火でほぼ全焼していた。この行幸の後、諸王臣五位以上に遷都の事を議論させた。藤原京造営が終わったばかりで経費節減のため、難波宮を整備しようとの考えで、この遷都も慶雲の改革の一環として計画された。
164_2   ところが、難波行幸から戻って体調がすぐれなかった文武は翌707年25歳で他界した。文武の皇子・(オビト)皇子はまだ八歳、生前母・阿閇(アヘ)皇女に譲位の意向を示していた文武の意志により母が即位し、元明天皇となる。
 これら皇位継承は、天智天皇の定めた「天地日月のある限り永遠に改まる事のない恒久の規範(不改常典)」として定めた法典に則って(正当な皇統を継ぐべしとした法典)文武が即位したことを元明は強調し、その文武の遺志に基づく皇位継承をするので、不改常典は微動だにしないことを強調し即位した。
 ここまで元明が文武の皇位継承の正統性にこだわったのは来たるべき首皇子への皇位継承を念頭に置いたからである。今、姉持統と同じ道を歩みだそうとしていた。そして、持統と元明に共通の政策実行者がいた。藤原不比等である。不比等の娘・光明子はやがて首皇子に嫁ぎ、一時代を画すことになるのである。

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2012年12月 1日 (土)

選び様がない政党乱立

 11党による党首討論会を見たが、各種政治課題に対し、是か非かの態度もはっきり示し得ず、ましてや具体的な処策討議に至っては、各党内でもバラバラの意見が多い
 選挙後に、党利党略のための離合集散を行い、その結果政権政党が確定しそうな感じであり、有権者は今現在支持政党を決められない状況である。これほど有権者を馬鹿にした政界は、きっと今に大きなしっぺ返しを食らうであろう。立候補者は国会議員の何たるかをじっくり考えるべきである。
 そんな怒りを示す真っ赤に色づいた樹を2点。
Photo  オタフクナンテン(お多福南天)。まあ何と安直な名前を付けたものだと思ったtら、学名はNantia domestica cv.Otafukunanten Nandia(属名)は日本語「ナンテン」が語源とか。そして、種名がOtafukunanten とは驚き。但し原産は中国である。尚英名はない。
2  ドウダンツツジ(満天星躑躅)。春、ススズランのような小さな花をつけ、秋にはこのように紅葉する、1年に2度おいしい樹だ。尚、満天星(ドウダン)灯台(トウダイ)の転化したもので、分枝の様が灯台の足が一つに束ねられているに似た処から来た由。
 

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