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2012年11月13日 (火)

倭国の興亡159: 文武天皇の律令国家推進

 文武朝は律令編纂を進め、年号制定、遣唐使派遣を行い、併せて版図の維持・確定、銭貨の鋳造を行った。
159  7世紀末から8世紀初めの東北や南九州は平穏であった。その中で、城柵修理が多い。698年12月700年2月に越後国や佐渡国の磐舟柵の修造。又、698年5月大野城・基肄城・菊智城(何れも大宰府防衛の朝鮮式山城)、699年12月三野城、稲積城(遺跡は未確認)の修理。698年8月699年9月、河内平野と飛鳥盆地を結ぶ要地・高安城の修理。何れも防衛を固め律令国家の版図を維持・確定する施策である。(地図中、赤丸が城及び城柵)

 九州南部では702年から隼人(薩摩半島地域の土着民)との武力衝突が発生。元々隼人が大和政権支配下に入ったのは682年の隼人の朝貢からである。衝突後709年、薩摩国が、713年大隅国が置かれた。721年以降は隼人反乱の記録はない
 709年から805年までは、隼人が交替で入京し(大替隼人)、大嘗祭の儀式で隼人舞を奏したり竹製品の製造に携わった。これとは別に畿内移住させられ朝廷行事に奉仕したり隼人が居り、今来隼人と呼ばれた。
 西南諸島でも版図の維持に乗り出し、682年多祢(種子島)の朝貢、682年掖玖(屋久島)・阿麻弥(奄美大島)が朝貢。これは国まぎの使と呼ばれる使者が武器携帯で朝貢を求めた呼応したもので、699年には前記のの外、新しく度感(徳之島)も朝貢した。
159_2  尚新羅からは文武即位の697年10月使者来日があり、翌年の朝賀に参列している。日本からは遣唐使に先駆け、700年5月遣新羅使が送られ10月帰国の途についている。この時遣唐使船が周防国で築造され始めた。(写真富本銭」)
 一方、「続日本紀」には銭貨の原料となる鉱物更新の記事が増える。699年12月鋳銭司を設置。683年富本銭鋳造が明らかになり、銅・アンチモンなど使用し、鋳銭司は鋳造する官司だったと見られる。律令国家成立を宣言する702年遣唐使は、この時富本銭を持参した可能性が高い。

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