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2012年11月 5日 (月)

倭国の興亡157: 大藤原京の造営

 新都造営の意志を持っていた天武は、即位3年後(676)には新都の模索を始めた。680年に皇后・(ウノ)の病気平癒を祈願し発願した薬師寺は藤原京の条坊に基づいており、それ以前に藤原京(新益京(アラマシノミヤコ))の造営は遡る。682年に天武が新京となる土地視察に赴いているから、新都造営開始はこの頃であろう。
157  684年、「宮室之地」が設立されるが、686年天武の死により一頓挫する。再び宮の造営が始まったのは持統即位の690年である。692年藤原宮の鎮祭儀式(地鎮祭)。そして、694年12月に浄御原宮から藤原宮へ移った。これで、日本最初にして最大の本格的都城、藤原京が成立した(上図)。(藤原京25㎢、平城京24㎢、平安京23㎢)。
 図の現在主流の小澤毅説によれば、東西5.2㎞、南北5.2㎞の正方形とみられ、南北十条東西十条としている。その中央に周囲約1㎞四方の藤原宮が置かれていたと見る。浄御原令施行後の691年には京内の宅地配分が行われた(右大臣4町、4位以上2町、5位1町、6位以下は課役負担者数により1町~1/4町)。試算によると官人だけで、宅地の3割弱を占めた
157_2  藤原宮は奈良・橿原市の大和三山(耳成山、畝傍山(ウネビヤマ)、香具山)に囲まれ、飛鳥川右岸に位置する。宮殿として初めて瓦葺をした。周囲約1㎞四方は、掘立柱塀で囲まれた。この内外に堀がめぐらされたのが大きな特徴で、特に外堀は幅5mで、周囲は各面3つずつ、計12の門がある。
 藤原宮の特徴は、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極院が成立した事だ。内裏正殿が持つ国家的な儀式空間の機能が分離独立したのである。大極殿の南面に開く閤門(コウモン)は宮の中心に位置する。その南側が朝政の場である朝堂院がある。内部には左右対称に12棟の礎石建ちの朝堂(官人の執務空間)が置かれ、周囲は礎石建ちの複廊がある。官人たちは毎日各朝堂に伺候し、内裏から大極殿に出御した天皇の下命に対して上申する、という形で朝政が執り行われた。

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