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2012年11月24日 (土)

倭国の興亡162: 遣唐使、大都城・長安の衝撃

 701年、32年ぶりの遣唐使が任命された。トップには天皇全権委任を受けた執節使(特命全権大使)に粟田真人(民部卿)が選任され、大使・高橋笠間(左大弁)、副使・坂合部大分(右兵衛府長官)、他三等官3名、そして第四等官の末席には山上憶良が名を連ねた。
 この遣唐使の目的は日本が一人前の国になり、取分け ①藤原京という都城の完成 ②大宝律令の完成 ③銭貨の使用 ④国号「日本」の宣言 を東アジア世界に対し認知して貰う事であった。
 当時の中国の冊封体制下での入貢ではなく、国号(日本)、年号(大宝)や国王(天皇)も自ら定め、大宝律令も制定しており、白村江で敗戦以来国交を断っていた国が、突然小帝国として完成したのを誇示した。当然中華思想とは相いれなかったが、一応朝貢の形式をとり、使者粟田真人の非の打ち処ない、典籍に精通した品格が高いと評された人物に免じ、日本を諸蕃・朝貢国として冊封せず、絶域の国即ち支配の及ばぬ辺境の国家として処遇したようだという。
162_2   遣唐使一行は702年6月末、筑紫津(博多)を発ち、10月には唐の都・長安に入っている。中国は3代皇帝の皇后・則天武后が皇帝となり(武周革命・690年)、国号をとしていた。粟田真人らは則天武后に謁見し、日本の律令国家完成を奏上した。当時の日本に対する理解は、旧唐書では倭国の別種としたが、新唐書では倭が日本になったとした。一方小国だった日本が倭を併合したとの説もあった。粟田達も中国の則天武后による王権簒奪(武周革命)は知らずにいた。(長安城・大明宮含元殿址。基壇東西76m、南北42m、西安市)
 唐・長安城は面積で藤原京の約2.4倍人口約百万人の大都市で、皇城、宮城も広大で、粟田らが持っていた知識とは大違いであった。
 粟田らは認識を新にした。①まず藤原京は、モデルとしたはずの中国の都城とは構造が大違い ②律令編纂では、都城完成後必要な宮衛令が独立した編目としてない。都城未完成時の飛鳥浄御原令に規制された面が強すぎた。また、中国では律令が格式と一体であるが、大宝律令には格式が伴ってない。施行直後からの律令の改変・補足が多い。など、中国での柔軟な律令運用を目の当たりにし、大宝律令の未完成を深く認識させられた。更に③銭貨の鋳造で富本銭は、中国五銖銭に倣ったが、唐は既に新銭「開元通宝」が発行されていた。藤原京と同様古い認識しかなかったこの現実は、遣唐使に大きな衝撃であった

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