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2012年11月 9日 (金)

倭国の興亡158: 浄御原令施行と不比等の台頭

 藤原京遷都の外、天武がやり残したもう一つの仕事は律令の制定である。飛鳥浄御原令は、持統即位前689年6月、令一部二十二巻が公布・施行された。律は完成してない。 「令」は徐々に実現に移されて行く。690年4月考仕令(勤務評定と位階授与)が部分施行され、9月には戸令により戸籍作成が指示された(庚寅年籍)。
 690年官員令施行により、高市皇子を大政大臣、多治比嶋を右大臣に任じた。
 天武朝との違いは、納言のみで構成した政策審議機構の大政官に大政大臣・左右大臣が置かれ、納言も大・中・小に分けて議政官組織が整備されたこと。又、大政官と同等の宮内官が整備され、後の宮内省・中務省に相当する六官と並ぶ位置づけとした。
 飛鳥浄御原令大宝律令以前に完成・施行された唯一の法典で、謂わば天武朝までの律令国家建設の集大成であり、国号「日本」称号「天皇」も公式に定められた最初と見られている。
158_2  679年2月、持統は草壁皇子の遺児・軽皇子を皇太子と定め、8月譲位し文武天皇として即位。その後も53歳の祖母・持統太上天皇と15歳文武の共治体制をとった。文武の配偶者としては、藤原不比等の娘・宮子が夫人(ブニン)に、紀竃門娘と石川刀子娘が妃(嬪(ヒメ)の誤り)となった。天皇の配偶者は出身により、妃・夫人・嬪に分かれ、内親王から選ばれた妃しか本来皇后にはなれなかった
 文武即位には不比等が奔走した功があり、それが娘宮子を文武の夫人とすることが出来た要因とも言われている。
 不比等は藤原鎌足の次男であり、鎌足が死んだときまだ11歳の少年であった。幼時に渡来人系の田辺史大隅の家に預けられ、不比等も田辺史(タナベフヒト)によるという。彼の学識はそこで養われた可能性がある。(不比等
 彼が実質藤原氏の祖となったことから、天智の落胤説があるが、履歴はよく分かっていない。しかし、律令国家の完成に果たした実力は高く評価されるべきとも言われる。

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