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2012年11月 1日 (木)

倭国の興亡156: 律令国家建設を引継ぐ持統天皇

 当シリーズは「倭国」の消滅をも以て終焉を迎える。が、この時点、天智・天武がめざした「大王から天皇へ」の方途も緒に就いたばかり。又国号も倭国ではなく中国の冊封体制からの完全独立国家・「日本」へ正式に変わるのもまだ少し時間がかかる「天皇に統治される日本国の誕生」即ち「氏族連合国・倭国の完全消滅」は、律令体制が揺らぎ始め、長岡・平安への遷都目前となる8世紀後半と言われる。その頃まで今少し、当シリーズも継続する。
156  さて、前回まで天皇と日本国の萌芽に尽力・献身した天武天皇が崩御したが、その継承は、長子である高市皇子ではなかった。高市は壬申の乱では参謀として中心的な役割を果たしたが、母親が北九州の豪族・胸形君徳善の娘・尼子娘(アマコノイラツメ)であったため、血筋の関係で皇位継承者に成れなかった。大海人が壬申の乱で勝利したのも、大友皇子の母が伊賀地方の豪族の娘で、皇族の出でなかったことが大きく影響した。それで、皇后・鸕野讃良(ウノサララ)皇女を母に持つ草壁皇子と大田皇女を母に持つ大津皇子が申し分ない後継者だったが、(鸕野と大田は天智の娘)大田皇女が667年に亡くなっていた。それで、天武存命中の681年、既に草壁皇子が皇太子に就位していたが、683年には大津皇子も豪放磊落文武両面に優れた資質を持って、国政に参加したという。
 ところが、天武死去の686年大津皇子の謀反が発覚。捉えられ10月2日自邸で死を賜った。渡来僧・行心が謀反を勧めたと言われ、真相は不明だが、我が子への皇位継承を強く望んだ持統が限りなく黒に近いと言われる。(写真は天武発願による本薬師寺の景観を伝える現在の薬師寺

 2年3ヶ月に亘る殯が終り、檜隈大内山陵に天武は葬られた。ところが、翌689年1月朝賀の儀式に立ったのは草壁皇子ではなく鸕野讃良皇女であった。「書記」では草壁の死があっさりと語られ、皇后鸕野が即位した経緯も省かれている。「書記」が大津を葬ってまで我が子に皇位継承をめざした持統を擁護しているものと見られている。
 こうして、律令国家建設は天皇持統に託されることになり、その協力者に抜擢されたのが、藤原鎌足の子、不比等であった。

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