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2012年11月

2012年11月29日 (木)

9世紀末の平仮名大量発見

 掲題の見出しで、今朝の新聞に、平安時代前期の有力貴族・藤原良相(ヨシミ)邸宅跡(京都・中京区)から、最古級の平仮名が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかったと報じている。平仮名はこれまで、9世紀半ばから古今和歌集が編纂された(905年)頃完成した、とされたが、その成立過程を裏付ける貴重な発見だという。
 古代、公文書は中国渡来の漢字が用いられたが、漢文ではなく、漢字を使った和文と言える書き方であった。従って、漢字の発音を倭語に当てて、草書に崩してゆくことにより、草仮名が出来たわけで、これが今回発見された仮名で、万葉仮名とは異なる。何れにしろ、言葉と文字の発生過程を知る上で貴重なものである。Photo
 ところで、気温は低下し、本格的な初冬である。この季節赤い実をつける樹が目立つ
 モッコク(木斛)。実が赤く、アカミノキの別名があるが、実は「モチノキ」とよく似ている、時期が早く、又葉が細長く、葉の色が変わらないので区別できる。日本、朝鮮、中国の暖地で、海岸近くに多いという。庭木以外には木質が堅く櫛など木工品に使われる。
Photo_2  マンリョウ(万両)。梅雨頃花が咲いたマンリョウが、今頃真っ赤な実を沢山つけている。これから来春まで目を楽しませてくれるが、毎年春先には小鳥たちの標的となり、無くなってしまう。また、この木は正月の祝いものとしてよく用いられる。

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2012年11月28日 (水)

倭国の興亡163: 古墳の終焉 高松塚・キトラ古墳

 7世紀末、仁徳陵で前方後円墳の最盛期を迎えた古墳文化も、それ以降、巨大古墳の意義を失い、小型化が進み、畿内では天皇家の陵(ミササギ)以外は、単なる墳墓となって古墳文化は終焉を迎えた。
 この時代、古墳終焉を飾るに相応しい鮮やかな彩色壁画を持つ2つの古墳が飛鳥地方に築造された。
 一つは4人の女性を描いて壁画で有名な高松塚古墳であり、もう一つは世界最古とも云われる天文図が描かれたキトラ古墳である。両者ともに明日香村に在り、1kmほどの近さに存在し、形態や造りが似通っている。
163  先ず高松塚古墳
1972年に発掘調査が行われ鮮やかな彩色壁画が一大ブームとなったのは記憶に新しい。7世紀末築造されたと見られる径14mの円墳である。被葬者は天武天皇の皇子説など諸説ある。石室内部は4面の壁及び天井に、日、月、星宿図、四神図、女性人物壁画(写真図)が描かれ、唐の海獣葡萄鏡など副葬品が出土し、又唐風男子像から唐文化の影響が見られるが、星宿図、夫人像などは高句麗古墳壁画との繋がりもあり注目される、特に婦人図は高句麗壁画に酷似している。高句麗の画師集団が築造に加わったとの見方もある。壁画の劣化が著しく石室ごと取り出し修復された。
163_2  ついで、キトラ古墳
築造、被葬者共にほぼ高松塚古墳と同様とみられる。埋葬施設は切石組の横口石槨である。石室の壁は四神図と十二支を表した獣面人身像、天井には東に日像、西に月像を配した天文図が描かれていた。
 
白虎写真図)は西方七宿の象徴で、西壁に描かれている。又玄武(亀の図)は北壁に描かれ、北方七宿の象徴である。宿星を象徴する4つの動物は(青龍図は破損していた)、虎、鳥(朱雀)(日本では初の発見)、(玄武)である。高松塚同様カビなどによる劣化が著しく、修復・保存のため壁画ははぎ取られた。

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2012年11月27日 (火)

晩秋から初冬へ

 晩秋と初冬は今頃交互に繰り返しながら、冬に入って行く。と、言われるが、その違いとなる基本的な条件がある訳では無いので、厳密には区別はつかない。
 ところが、昨日から今日にかけての雨または雪を伴う全国的な気温低下は、正しく初冬であった「冷え込む」と言う寒さを実感した一日だった。だから、これからはこれが普通で、時たま暖かい日、即ち小春日が現れるのである。
 そのような季節の中で、華やかではないが、今頃しっかりと花をつける樹を紹介。
Photo  ヒイラギ(柊)。木犀が薫る頃、花をつける「ヒイラギモクセイ」とは別。柊だが、雌雄別株で雌株が花をつける頃なのだ。尤もこれもかすかだがモクセイと同様の香りがする。この木はしなやかだが堅く、強いので玄翁(重い金槌)の柄に使われる。葉に棘があるので、魔除けを兼ねて、生垣に多く使われる。但し老木になれば棘が消えるとか。
Photo_2  ヤツデ(八つ手)。葉が7~9裂するので、八つ手と言われる。余り美しい花でもないが、昔から日本の家には必ず植わっていた。大きな葉が魔物を払うと信じられ、魔除けに植えたことの外、葉のサポニンが殺虫作用があるため、トイレの近くに植えて置き、ウジ虫退治に、この葉を揉んでトイレに入れたのがその理由だ。

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2012年11月25日 (日)

もみじが紅葉した

Photo  ここ2、3日はよく冷え込んだ。この分ではきっと「もみじ」も色づいているだろうと、昨日はもみじの多い方面を歩いてみた。いつも紅葉の季節には、香椎宮にはもみじが多いので其処へも行って見ると、期待に違わず、漸く色づいた「もみじ」に出逢った。又ここは神宮だけに雰囲気もよく、より一層引き立って見える。
Photo_2  紅葉がなぜ色づくか。簡単に云えば気温が下がると葉に水を通す部分(離層)が出来て、その結果、葉に出来た糖類やアミノ酸が葉に蓄積され、そこに日が当ると光合成により赤や黄の色素に変化して、「紅葉」するのである。赤いのは葉にアントシアンを蓄積する木が、黄色は葉にカロテノイド系のキサントフィルを蓄積する木が、糖類との反応で出来る。
Photo_3  この発色には勿論気温が8℃以下が必要で、5℃以下で一気に進むと云われる。勿論、「昼夜の温度差」、「平地より斜面」、「清浄な空気」、「適度な水分」など、きれいに紅葉する条件がある。これら条件と、勿論もみじの木が沢山あるという環境「紅葉の名所」となる訳である。
 

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2012年11月24日 (土)

倭国の興亡162: 遣唐使、大都城・長安の衝撃

 701年、32年ぶりの遣唐使が任命された。トップには天皇全権委任を受けた執節使(特命全権大使)に粟田真人(民部卿)が選任され、大使・高橋笠間(左大弁)、副使・坂合部大分(右兵衛府長官)、他三等官3名、そして第四等官の末席には山上憶良が名を連ねた。
 この遣唐使の目的は日本が一人前の国になり、取分け ①藤原京という都城の完成 ②大宝律令の完成 ③銭貨の使用 ④国号「日本」の宣言 を東アジア世界に対し認知して貰う事であった。
 当時の中国の冊封体制下での入貢ではなく、国号(日本)、年号(大宝)や国王(天皇)も自ら定め、大宝律令も制定しており、白村江で敗戦以来国交を断っていた国が、突然小帝国として完成したのを誇示した。当然中華思想とは相いれなかったが、一応朝貢の形式をとり、使者粟田真人の非の打ち処ない、典籍に精通した品格が高いと評された人物に免じ、日本を諸蕃・朝貢国として冊封せず、絶域の国即ち支配の及ばぬ辺境の国家として処遇したようだという。
162_2   遣唐使一行は702年6月末、筑紫津(博多)を発ち、10月には唐の都・長安に入っている。中国は3代皇帝の皇后・則天武后が皇帝となり(武周革命・690年)、国号をとしていた。粟田真人らは則天武后に謁見し、日本の律令国家完成を奏上した。当時の日本に対する理解は、旧唐書では倭国の別種としたが、新唐書では倭が日本になったとした。一方小国だった日本が倭を併合したとの説もあった。粟田達も中国の則天武后による王権簒奪(武周革命)は知らずにいた。(長安城・大明宮含元殿址。基壇東西76m、南北42m、西安市)
 唐・長安城は面積で藤原京の約2.4倍人口約百万人の大都市で、皇城、宮城も広大で、粟田らが持っていた知識とは大違いであった。
 粟田らは認識を新にした。①まず藤原京は、モデルとしたはずの中国の都城とは構造が大違い ②律令編纂では、都城完成後必要な宮衛令が独立した編目としてない。都城未完成時の飛鳥浄御原令に規制された面が強すぎた。また、中国では律令が格式と一体であるが、大宝律令には格式が伴ってない。施行直後からの律令の改変・補足が多い。など、中国での柔軟な律令運用を目の当たりにし、大宝律令の未完成を深く認識させられた。更に③銭貨の鋳造で富本銭は、中国五銖銭に倣ったが、唐は既に新銭「開元通宝」が発行されていた。藤原京と同様古い認識しかなかったこの現実は、遣唐使に大きな衝撃であった

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2012年11月23日 (金)

晩秋なるも未だ紅葉少なし

 昨秋より気温は低いとの報道だが、未だ紅葉は少なく、全山紅葉と言う体ではない。
 Photo_10 とは言っても、イチョウや桜は既に散り始めている。どうも平地では、今年はうまく紅葉するような天候でなかったらしい。仕方なく公園や街路樹の紅葉したものを撮ってきた。
 もみじ。これは多分、元々赤い葉のもみじと思うが、枯れもせず綺麗に残っているので撮った。
Photo_9  イチョウ並木というか、街路樹のイチョウと言うべきか、片方だけ銀杏が並んでいるところがある。この木はまだ黄緑のも残っている状態。やはり散り始めがきれいだ。
2_3  名称不明。公園によくある木で、名前を知らないが、比較的美しく紅葉していたので撮ってきた。この周辺には桜の木が多いが、桜は殆ど散ってしまっている。多分10月前半までの雨量が少なかったことが影響したのだろう。
 

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2012年11月21日 (水)

倭国の興亡161: 律令国家への主な改変

 大宝律令に基づき形成された古代国家の基本的な国制は、主な事項を以下略記するに留める。
1 中央官制機構
 二官八省となる。二官「太政官」と「神祇官」が並立。太政官は、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の八省神祇官は実質は太政官の下部組織で、宮中の神祇祭祀と全国の神社を統括
 役人(官人)は地位を示す位階があり、位階に対応した官職についた。官人には位田、食封(ジキフ)、禄などが給与として与えられたが、位階ごとに差がついた。
2 地方支配の仕組み
161_2  地方支配は京・難波・筑前の要地とそれ以外の諸国に分けられた。3つの要地には、京:左・右京職、難波:摂津職、筑前:大宰府がおかれ、管轄した。
 左・右京職には東西の市を管理する東・西市司があり、行政は坊単位坊令ー坊長が置かれ、条・坊ごとに管轄した。摂津職摂津国難波を管轄。大宰府には防人司鴻臚館(博多)が置かれ、その他西海道諸国(九州)が支配下に置かれた。(大宰府政庁イメージ図)
 
諸国は、畿内と七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)に分かれ、国司の下には郡(郡長)里(里長)及び軍団が置かれた。
3 行政区
 日本国内は
国・郡・里という3段階の行政区画に編成。更に国の上位区分として畿内・七道という広域行政区分が設定された。畿内ではとその周辺5国(大和・山背・河内・摂津・和泉)で、七道は上記の通りである。
 地方支配の行政単位は「郡(コオリ)」であり、以前の評(コオリ)がベース。評督であった地方豪族が郡司として実質支配を継続した。又、郡は50戸からなる里によって構成。
4 公地公民(口分田と税制)
 土地と人民は全て国家の所有となった(公地公民制)。戸籍に登録されたすべての公民に口分田が班給され、その収穫に対し課税するのを基本とした税制が確立。死後は口分田を国に返納した(班田収受法)
 この他公民は布や特産品の奉納、土木工事や兵役への出役があり、その負担は重かった。耐えられず田を放棄する逃亡者が増え、豪族の私有地・私有民が増え、奈良時代後半には、公地公民制も揺らぎ始める

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2012年11月20日 (火)

争点不明の選挙戦か、返り花?咲く

 早くも選挙戦の様相を呈しているが、各党とも未だ準備不足のためか、今一つ明確な主張点がない。そもそも立党の基礎たる主義主張が無く、只多数を制するための寄合の感がする。要するに各党の明確な主張点がはっきりしないので、こんなに多くの党があっても殆ど区別がつかない状態である。多分まだまだ離合集散が続きそうだ。
 植物界も四季の区別がなくなったか、春に見た花が今頃咲いている場合が多い。所謂帰り花かと思っていたら、今日の花は今頃も咲く花と図鑑にあるのを2点。
Photo  ホトケノザ。これは当ブログで3月16日に載せている。それが今頃このように群生している。不思議に思って図鑑説明を見ると、元々3-6月に咲くが、秋にも咲くと書いてある。結構そんな草花は多いようである。
Photo_2  ノアサガオ。是こそ小生の認識不足。この朝顔は
沖縄原産の種であり、夏から秋にかけて咲き、暖かい所では冬枯れしない品種だそうだ。秋に古い蔓を切って土に埋めれば芽が出るそうで、今頃花を咲かせていても不思議でないそうだ。朝青い花が昼には紫色に変わってくるというから、見分けやすい。

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2012年11月18日 (日)

果実が実る秋

 完全に選挙モードに入った政界。太陽の党が日本維新の会に合体。しかし、この新党の事を理解できる人は果たして増えるのだろうか。いくら無党派層が多いと云っても、彼らが支持するとは限らないし、既存政党に嫌気がさした人達が支持できるに必要な全貌が全く不明である。いよいよ政界は混乱を深めるばかりでないのか。
 そんな秋(トキ)、実ってきた果実の続編をお届けする。
Photo  フユウガキ(富有柿)。江戸末期に岐阜県瑞穂市で栽培が始まった御所柿が起源で、明治31年、接木での栽培に成功し「富有」と名付けられた。九州北部(阿蘇以北)では、蜜柑栽培と共に、富有柿栽培も盛んである。柿も今年は豊作である。
Photo_2  吊るし柿。この柿の品種は不明。干し柿とも云い、全国的にはいろんな品種の柿が干し柿になっている。干し柿の甘さは砂糖の1.5倍と言われ、甘柿より甘い。干し柿の表面の白い粉は糖類(ブドウ糖など)で、結晶化したものである。タンニンなどの渋み成分が不溶性に変化する結果の甘さである。
Photo_3  ボンタン(文旦)。径20cmほどの大きい果実。鹿児島に多いが、福岡では珍しい。元禄年間(1688-1704年)に中国の船が、鹿児島・阿久根に漂着した際、もたらされたというのが通説。その船長の名前「謝文旦」「文旦」からボンタン、あるいは「謝文」からジャボン→ザボンとなった等々、名前の由来がある。

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2012年11月17日 (土)

倭国の興亡160: 大宝律令完成施行と年号発足

 律令制国家建設をめざした取組がされ、670年に天智天皇が初の法令「近江令」を制定し、689年には持統天皇のもとで飛鳥浄御原令が施行され、そして701年に天武天皇のもとで、刑罰を定める律と行政法である令が揃った我が国初の律令の施行が行われ、日本の律令制が確立した。大宝律令である。
 これは唐の律令を元にし、日本の実情に合わせた日本型律令制構築への出発点となったものである。(:年上段が制定、下段が施行年。天皇名の下は編者)
160  律と令は若干編纂時期がずれ、大宝令700年3月頃には編纂を終え、諸王臣に令文を読み習わせ、6月には律令撰定の功績により刑部(オサカベ)皇子、藤原不比等、粟田真人ら19人に禄が支給された。渡来人や渡来系氏族など海外事情や典籍に明るい人材を登用している。
 一方大宝律の編纂は令編纂者の褒賞の前後から始まり、701年8月でには完成したようで、律令全体の編纂終了に伴う禄が支給された。律が令に比べかなり短期間に編纂を終えたのは令に比べ唐の条文引き写しが多かったようだ。この時点を律令の完成としているが、令はもう施行されていた。
 3月には官職、位階、朝服の制度を新令によることが宣言され、6月には庶務全てを新令により行うよう周知徹底された。一方律は702年に在京諸司に写しが頒布され10月には諸国に頒布された。こうして大宝律令は全国に行き渡り、古代国家の基本法として機能し始めたのである。

 そして、大宝令儀制令には「公文(公文書)に年を記載する際には皆年号を使用せよ」という規定がある。こうして年号使用が始まり、今日まで続いている。年号「大宝」701年3月に対馬嶋からの金の貢進を祝う形で制定された。これは大納言・大伴御幸の指示により、大倭国の雑戸の三田五瀬を対馬に派遣し金鉱石の精錬を行わせた。対馬で金鉱石が発見されたとの情報による。三田五瀬も無事大役を果たし金の精錬に成功したことにより大宝の年号が制定された。
 ところがこれが後に五瀬の詐欺だと判ったという。処罰された記事はない。
 尚、大宝律令は現在残っていない。757年施行の養老律令によって、大宝律令が過去の法令となったからであり、養老律令も典籍で残っているわけではない。養老令の公式の注釈書・「令義解」(833年)や「令集解」の中に引用された形で残っているのだ。

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2012年11月16日 (金)

衆院解散!

 一昨日の衆院予算委員会での党首討論で、突如、野田総理から安倍自民総裁に「議員数削減を必ずやるか。約束するなら、私は16日に衆院を解散する」と詰め寄った。突然の事で一瞬安倍さんもたじろいだ感があったが「やりましょう」と受けて、本日先程(15時51分)衆院は解散された
 徐々にじり貧となる民主党勢力低下となる前、逆に勢力が出そうな第三極勢力が軌道に乗る前に、打って出た野田さんの作戦勝ちとする見方が多い
Photo  現在少数野党が乱立し、今からこれらの離合集散が始まると見られ、この選挙の行方は全く分からない。
 特に石原新党がどう動くか、維新の会が連携するかどうか判らぬ。何れにしろ、国民は真に「日本」を責任を持つて導いて行く党やグループの選択を誤らぬ様にせねばならぬ
Photo_2  最近急に冷込み柑橘類が色づいてきたので、その写真を撮ってきた。他の果実と同様、蜜柑類も今年はやや小粒ながら沢山の実がなっている
 レモン(檸檬)。当地でもレモンはまだ珍しいほうだ。耐寒性が-2~-4℃だそうで、瀬戸内や和歌山などやはり暖かい所に多く、1本から100~150個の果実が採れる由。
Photo_3  ユズ(柚子)。これはホンユズ。小型で早熟性のハナユズは別種である。日本は生産も消費真最大であるという。九州では唐辛子と混ぜた柚子胡椒があり、大分県の特産品となっている。
 ナツミカン(夏蜜柑)。昭和初期に大分で甘夏蜜柑が発見され、それが広がり、現在では甘夏が主流になっているという。当地では大概の家の庭に必ず1本は夏蜜柑が植わっている。

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2012年11月14日 (水)

浮足立ってきたか政界

 愈々石原新党が発足し、多極化が進む中、なんとなく年内解散を匂わせる総理、これを絶対阻止しようとする民主党内包囲網、一寸先は闇と言われる政界に在っては大変な慌ただしさを感じるこの頃である。
 そんな事とは関係なく、自然は冬に向かっており、周りの植物も冬枯れに向かって進んでいるように感じる。そんな中を歩いていて目立ったのが今日の2点。
Photo  ツタ(蔦)。普通のナツヅタ或いはアマヅラと称される葉先が三裂したやや大きめのツタはよく見掛ける。しかし、この写真のような三裂せず小さな葉(3cm位)の葉のツタは多分園芸用に開発されたものである。鉢植えや庭先で見かけるが、このように道路のコンクリート壁に這っているのは珍しいので撮って来た。
I  ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)。これは春からずーと咲いているが、今頃大きく成長し花も沢山付けている。特にこれは道路脇の空き地に群生していたので撮ってきた。調べるとこの草の花期は5~6月と9~11月の2回あるそうで、それで年中咲いている感じがする。

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2012年11月13日 (火)

倭国の興亡159: 文武天皇の律令国家推進

 文武朝は律令編纂を進め、年号制定、遣唐使派遣を行い、併せて版図の維持・確定、銭貨の鋳造を行った。
159  7世紀末から8世紀初めの東北や南九州は平穏であった。その中で、城柵修理が多い。698年12月700年2月に越後国や佐渡国の磐舟柵の修造。又、698年5月大野城・基肄城・菊智城(何れも大宰府防衛の朝鮮式山城)、699年12月三野城、稲積城(遺跡は未確認)の修理。698年8月699年9月、河内平野と飛鳥盆地を結ぶ要地・高安城の修理。何れも防衛を固め律令国家の版図を維持・確定する施策である。(地図中、赤丸が城及び城柵)

 九州南部では702年から隼人(薩摩半島地域の土着民)との武力衝突が発生。元々隼人が大和政権支配下に入ったのは682年の隼人の朝貢からである。衝突後709年、薩摩国が、713年大隅国が置かれた。721年以降は隼人反乱の記録はない
 709年から805年までは、隼人が交替で入京し(大替隼人)、大嘗祭の儀式で隼人舞を奏したり竹製品の製造に携わった。これとは別に畿内移住させられ朝廷行事に奉仕したり隼人が居り、今来隼人と呼ばれた。
 西南諸島でも版図の維持に乗り出し、682年多祢(種子島)の朝貢、682年掖玖(屋久島)・阿麻弥(奄美大島)が朝貢。これは国まぎの使と呼ばれる使者が武器携帯で朝貢を求めた呼応したもので、699年には前記のの外、新しく度感(徳之島)も朝貢した。
159_2  尚新羅からは文武即位の697年10月使者来日があり、翌年の朝賀に参列している。日本からは遣唐使に先駆け、700年5月遣新羅使が送られ10月帰国の途についている。この時遣唐使船が周防国で築造され始めた。(写真富本銭」)
 一方、「続日本紀」には銭貨の原料となる鉱物更新の記事が増える。699年12月鋳銭司を設置。683年富本銭鋳造が明らかになり、銅・アンチモンなど使用し、鋳銭司は鋳造する官司だったと見られる。律令国家成立を宣言する702年遣唐使は、この時富本銭を持参した可能性が高い。

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2012年11月12日 (月)

秋の名残り

 立冬を過ぎた途端、急に寒い日が続いている。今週末は更に冬並みの寒さになるという。こうなれば夏に屋外に出していた鉢植えも屋内に取り込まねばと、先週寒蘭を4鉢取り込んだ。これらは今花が咲き、かすかに香っている。
 続いて先日亜熱帯植物のガジュマルマングローブの鉢植えを部屋に取り込んだ。これらは奄美より持ち帰ったものだから(マングロ-ブは種を)、最低気温10℃位までは大丈夫だがそれ以下が続くと危険だ。
 一方、野山の紅葉はあまり進まず、漸く銀杏が黄色になって来たが、桜など一部紅葉しながら既に散りかかっている。柿も蜜柑も漸く黄色味を帯びてきた段階である。
 その中で、秋の名残りの如く、咲いている花2種
Photo  コギク(小菊)。大菊に対し小さい花を小菊と称し、種類は沢山あるが、その中で最もポピュラーで山野にも咲いている野菊に近いものである。これは野菊の改良品種で、家菊とも称されるが、これもやがて枯れる時期になった名残の花だ。
Photo_2  ハギ(萩)。当地・福岡では萩が咲き始めた頃から天候不順で、萩は咲いては雨にチリ咲いては散りを繰り返し、このごろ漸くまともに咲いて、今眞盛りである。しかし、もう寒くなって来て、正に名残の花となっている。

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2012年11月10日 (土)

秋深まり、解散近いか?

 来週末には最高気温12℃、最低7℃などと予報され、急に秋が深まって来た感じ。と同時に特例公債法案の成立が見込まれると、急に解散風が吹き始めた。但し時期に関しては年内、年越し跨ぎ、年明けと色んな憶測が飛び交っているが、米国、中国の新政権発足や、国内第三極の動きも無関係ではあるまい。なんとも不安定で生活基盤が揺らいでいる感じで面白くない日々である。
 今日は秋が進んでいる象徴を二つ
Photo  コウテイカ(皇帝花)。コウテイダリアともいう。標準和名はコダチダリア(木立ダリア)だが、キク科の植物で、ダリアの原種だそうだ。この木を増やすのは節の付いた茎を赤玉土か、ミズゴケに挿せば春先には新芽が出るそうだ。但し、この花、背が高いので他人様の観賞用であろう。
Photo_2  トキワサンザシ。通称ピラカンサはこのトキワサンザシと、タチバナモドキ、ヒマラヤトキワサンザシの総称。3者とも同じ実の形をし、同じトキワサンザシ属ではある。
 しかし、橘モドキ橙色に対しこの常磐サンザシは写真の如く、やや大ぶりの真っ赤な実になる。又前者の葉っぱは細長いのに対し、後者はやや短く楕円形である。尚、前者が中国原産に対し、後者は欧州南部~西アジア原産であるという違いがある。
 実はこんな事は知らず、ピラカンサは皆同じとばかり思っていた次第である。

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2012年11月 9日 (金)

倭国の興亡158: 浄御原令施行と不比等の台頭

 藤原京遷都の外、天武がやり残したもう一つの仕事は律令の制定である。飛鳥浄御原令は、持統即位前689年6月、令一部二十二巻が公布・施行された。律は完成してない。 「令」は徐々に実現に移されて行く。690年4月考仕令(勤務評定と位階授与)が部分施行され、9月には戸令により戸籍作成が指示された(庚寅年籍)。
 690年官員令施行により、高市皇子を大政大臣、多治比嶋を右大臣に任じた。
 天武朝との違いは、納言のみで構成した政策審議機構の大政官に大政大臣・左右大臣が置かれ、納言も大・中・小に分けて議政官組織が整備されたこと。又、大政官と同等の宮内官が整備され、後の宮内省・中務省に相当する六官と並ぶ位置づけとした。
 飛鳥浄御原令大宝律令以前に完成・施行された唯一の法典で、謂わば天武朝までの律令国家建設の集大成であり、国号「日本」称号「天皇」も公式に定められた最初と見られている。
158_2  679年2月、持統は草壁皇子の遺児・軽皇子を皇太子と定め、8月譲位し文武天皇として即位。その後も53歳の祖母・持統太上天皇と15歳文武の共治体制をとった。文武の配偶者としては、藤原不比等の娘・宮子が夫人(ブニン)に、紀竃門娘と石川刀子娘が妃(嬪(ヒメ)の誤り)となった。天皇の配偶者は出身により、妃・夫人・嬪に分かれ、内親王から選ばれた妃しか本来皇后にはなれなかった
 文武即位には不比等が奔走した功があり、それが娘宮子を文武の夫人とすることが出来た要因とも言われている。
 不比等は藤原鎌足の次男であり、鎌足が死んだときまだ11歳の少年であった。幼時に渡来人系の田辺史大隅の家に預けられ、不比等も田辺史(タナベフヒト)によるという。彼の学識はそこで養われた可能性がある。(不比等
 彼が実質藤原氏の祖となったことから、天智の落胤説があるが、履歴はよく分かっていない。しかし、律令国家の完成に果たした実力は高く評価されるべきとも言われる。

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2012年11月 8日 (木)

冬と秋が入り混じる小春

 昨日が立冬。暦の上では冬となる。最近の気温は福岡で最高18-20℃、最低10-12℃位で推移しているが、朝夕は冬並みの服装、昼間出かけるには秋の軽装と着替えが必要だ。これから12月までの間、好天気にはすっきりと晴れ上がり、暖かくなることが多いので、この間を小春と言う。そしてその間の晴天を「小春日和(コハルビヨリ)」と言う。故に正月以降の好天気を「春のような」と言う意味で、小春日和と言うのは間違いである。
 小春日和を実感するのは、猫が日溜りで眠っている風景をよく見掛ける頃だ。
 そんな事で、もう秋の花々も影を潜め始め、かろうじて残っている青紫色の花2点
Photo  ハナシキブ(花式部)。正式名(学名)はカリオプテリス・クランドネンシスという。和名は花の色と花の付き方が「紫式部」に似ているからだそうだ。但し花色は白やピンクもある由。これは交配による園芸種の花で、花期も終わり近い。道端に野草化しつつあったもの。
Photo_2  サルビア・ビクトリア。沢山あるサルビアの種類の中の一種。ビクトリアは枝分かれが多いのが特徴で、花の色からブルーサルビアとも呼ばれる由。これは花畑に植栽されていたものである。

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2012年11月 6日 (火)

菊薫る候

 菊が薫るのは秋が深まりやや冷え込んだ頃、と私の頭には刷り込まれている。いやー、まさに今頃が菊薫る季節なのだ。
Photo  春の桜に対し、菊は日本の秋を象徴する花である。その根源は、鎌倉時代の初め、後鳥羽上皇が、身の廻り品に菊花を施したことから、天皇及び皇室の紋となったのが決定的要因と言われている。因みに菊花及び菊葉を家紋とする氏がも一つある。九州の豪族・菊池氏である。
 菊の代表歌一首、「心あてに折らばやをらん初霜のおき惑わせる白菊の花」(凡河内躬恒)
Photo_3  そこで、今日は畑の片隅に植わっていた「ポンポン」3種。別名ピンポン菊とも言うらしいが、花の仕立て方で、花を間引き、真ん丸く大きくしたのが「ピンポン菊」そうでないのが「ポンポン菊」だという説がある。
Photo_2  この花は丸いのが一つの花と思っていたら、沢山集まっている筒状の小さなの一つ一つが夫々花で、それが寄り集まって丸くなり、一つの花の様になっているのだそうである。オランダで園芸種として開発されたもので、色は白、黄、ピンク、赤、緑と多い。

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2012年11月 5日 (月)

倭国の興亡157: 大藤原京の造営

 新都造営の意志を持っていた天武は、即位3年後(676)には新都の模索を始めた。680年に皇后・(ウノ)の病気平癒を祈願し発願した薬師寺は藤原京の条坊に基づいており、それ以前に藤原京(新益京(アラマシノミヤコ))の造営は遡る。682年に天武が新京となる土地視察に赴いているから、新都造営開始はこの頃であろう。
157  684年、「宮室之地」が設立されるが、686年天武の死により一頓挫する。再び宮の造営が始まったのは持統即位の690年である。692年藤原宮の鎮祭儀式(地鎮祭)。そして、694年12月に浄御原宮から藤原宮へ移った。これで、日本最初にして最大の本格的都城、藤原京が成立した(上図)。(藤原京25㎢、平城京24㎢、平安京23㎢)。
 図の現在主流の小澤毅説によれば、東西5.2㎞、南北5.2㎞の正方形とみられ、南北十条東西十条としている。その中央に周囲約1㎞四方の藤原宮が置かれていたと見る。浄御原令施行後の691年には京内の宅地配分が行われた(右大臣4町、4位以上2町、5位1町、6位以下は課役負担者数により1町~1/4町)。試算によると官人だけで、宅地の3割弱を占めた
157_2  藤原宮は奈良・橿原市の大和三山(耳成山、畝傍山(ウネビヤマ)、香具山)に囲まれ、飛鳥川右岸に位置する。宮殿として初めて瓦葺をした。周囲約1㎞四方は、掘立柱塀で囲まれた。この内外に堀がめぐらされたのが大きな特徴で、特に外堀は幅5mで、周囲は各面3つずつ、計12の門がある。
 藤原宮の特徴は、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極院が成立した事だ。内裏正殿が持つ国家的な儀式空間の機能が分離独立したのである。大極殿の南面に開く閤門(コウモン)は宮の中心に位置する。その南側が朝政の場である朝堂院がある。内部には左右対称に12棟の礎石建ちの朝堂(官人の執務空間)が置かれ、周囲は礎石建ちの複廊がある。官人たちは毎日各朝堂に伺候し、内裏から大極殿に出御した天皇の下命に対して上申する、という形で朝政が執り行われた。

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2012年11月 4日 (日)

コスモスを観てきた

 朝夕寒くなったが、日中は好天続きで気持ちがよかったので、コスモスは今が最盛期でないかと、見に行ってきた。最近多くの公園や花園でコスモス植えられているが、そう遠くない郊外で、可なり広範囲の畑に、毎年春は蓮華、初夏から秋にかけてはコスモスが植っている処がある。休耕田に雑草を生やさないための対処なのか。
Photo  別段入園料をとるとか、駐車料を取る訳でないが、全体を管理している感じの小店と駐車場があるだけである。それで、毎年結構多くの見物客が来ている。
上及び中コスモス(秋桜)。別名ハルシャギク。所謂普通のコスモス。品種改良されたものか、今年はどこも背丈の短いのが一面に植わってた。
Photo_2  コスモスに人気があるのか、一面花畑と言うところに人気があるのか不明だが、多分後者であろうと思う。
 因みにさだまさし、山口百恵が歌っている「コスモス」は好きだが、この曲人気があるのは、花のせいではなく曲や歌詞がいいからであろう。歌詞の陽だまりの老人も今は少なくなった気がする
Photo_3  黄花コスモス(黄色秋桜)。同じコスモス属だが、上記コスモスより、暑さに強く、初夏から秋にかけて咲く。又上のハルシャギクより繁殖力も強く、これが生えると、ハルシャギクを席巻してしまうという。見るからに強うそうで、普通のコスモスのやさしさがない感じではある。
 

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2012年11月 2日 (金)

黄落の秋

 急に冷え込みが強くなり、12月中旬の気温と言う。景気の方も冷え込み、家電業界の不振で、大幅の赤字見込みや、補助金終了での新車販売2か月連続減などが報じられている。
 この気温の低下で、この葉や果実が急に色づき始めた。掲題の「黄落」は黄色の葉が落ちることで、黄葉と共に俳句の秋の季語である。確かに秋は紅葉より黄葉が多いかも。
 そんな深まりゆく秋の写真を2枚。
Photo  ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)。「秋の蝶」と言う季語もあるが、この蝶は春先からいる蝶。この豹紋の蝶の種類は多く、紋様の少しの違いと大きさで区別される。この写真はオス(右の黒紋のある方)とメス(左の豹紋だけの方)が番っていて(尻尾が繋がっている)、よたよたと飛んできたところを撮ったもの。珍しい写真が撮れたので載せた次第。
Photo_2  カリン(榠樝)。実ものが豊作で、カリンも鈴なりで、色づいてきた。別名アンランジュ(安蘭樹)。果実は芳ばしい香りがするが、渋く生食に向かず、砂糖漬けやカリン酒にする。ビタミンC、リンゴ酸、クエン酸、タンニンが豊富で咳、痰など喉の炎症に効く

 当ブログと別に、小生のホームページhttp://hihabe.com/)の俳句の項を「冬季号」に更新しています。どうぞ訪問ください。

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2012年11月 1日 (木)

倭国の興亡156: 律令国家建設を引継ぐ持統天皇

 当シリーズは「倭国」の消滅をも以て終焉を迎える。が、この時点、天智・天武がめざした「大王から天皇へ」の方途も緒に就いたばかり。又国号も倭国ではなく中国の冊封体制からの完全独立国家・「日本」へ正式に変わるのもまだ少し時間がかかる「天皇に統治される日本国の誕生」即ち「氏族連合国・倭国の完全消滅」は、律令体制が揺らぎ始め、長岡・平安への遷都目前となる8世紀後半と言われる。その頃まで今少し、当シリーズも継続する。
156  さて、前回まで天皇と日本国の萌芽に尽力・献身した天武天皇が崩御したが、その継承は、長子である高市皇子ではなかった。高市は壬申の乱では参謀として中心的な役割を果たしたが、母親が北九州の豪族・胸形君徳善の娘・尼子娘(アマコノイラツメ)であったため、血筋の関係で皇位継承者に成れなかった。大海人が壬申の乱で勝利したのも、大友皇子の母が伊賀地方の豪族の娘で、皇族の出でなかったことが大きく影響した。それで、皇后・鸕野讃良(ウノサララ)皇女を母に持つ草壁皇子と大田皇女を母に持つ大津皇子が申し分ない後継者だったが、(鸕野と大田は天智の娘)大田皇女が667年に亡くなっていた。それで、天武存命中の681年、既に草壁皇子が皇太子に就位していたが、683年には大津皇子も豪放磊落文武両面に優れた資質を持って、国政に参加したという。
 ところが、天武死去の686年大津皇子の謀反が発覚。捉えられ10月2日自邸で死を賜った。渡来僧・行心が謀反を勧めたと言われ、真相は不明だが、我が子への皇位継承を強く望んだ持統が限りなく黒に近いと言われる。(写真は天武発願による本薬師寺の景観を伝える現在の薬師寺

 2年3ヶ月に亘る殯が終り、檜隈大内山陵に天武は葬られた。ところが、翌689年1月朝賀の儀式に立ったのは草壁皇子ではなく鸕野讃良皇女であった。「書記」では草壁の死があっさりと語られ、皇后鸕野が即位した経緯も省かれている。「書記」が大津を葬ってまで我が子に皇位継承をめざした持統を擁護しているものと見られている。
 こうして、律令国家建設は天皇持統に託されることになり、その協力者に抜擢されたのが、藤原鎌足の子、不比等であった。

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