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2012年10月11日 (木)

倭国の興亡151: 壬申の乱6 近江朝廷の最後

 2日不破を発った村国男依ら率いる数万の軍は、7日息長横河で境部連薬ら率いる近江軍を破ったのを皮切りに次々と敵を撃破し、22日、ついに瀬田に至り、橋を挟んで大友の率いる近江の大軍と対峙した。
151  近江の将・智尊は橋のほとりに陣をしき、橋の中程を切断ち、敵が通過すると板を引いて落とす作戦だったが、勇敢にも大分君稚臣はこれを駆け抜けて敵陣へ突入した。浮足立った近江軍は総崩れとなり、智尊は敗死、大友や左右の大臣らは身一つで遁れる有様だった。(:最後の戦場)

 翌23日、ついに大津京は陥落し、近江の群臣は散りじりとなり、大友に伴ったのは物部連麻呂と1、2の舎人のみだった。前日三尾城を落とされ、北への道を阻まれた大友は引き返し山崎に隠れそこで自死した。
 翌日、大海人軍の諸将はことごとく笹浪に会し、左右大臣をはじめとする近江方の罪人を探索し、逮捕した。
 そして26日諸将は不破へと向かい、本営に大友の首を献じた。大海人が吉野を脱してから一ヶ月余の事である。

 こうして壬申の乱は終結した。大海人の勝因的確で迅速な戦略にあった。大海人自身が吉野を発つに先立ち、美濃に使者を派遣し、徴兵と不破道の閉鎖を命じたことをはじめ、東国の兵力を一手に動員し、近江方の徴兵を不可能にしたことは乱の帰趨を決定的にした意味を持つ。
 大海人方が軍事的に優位に立つと、諸国の国宰やヤマトの豪族などが雪崩を打って大海人方に近づき、近江方の将官からも寝返る者が出た。この現象は「大皇弟」大海人にもともと備わっていた高い権威が大きく作用したであろう。

 8月25日、近江方の重臣の処分が発表された。8人が死罪とされ、左大臣蘇我臣赤兄・御史大夫巨勢臣比等とその家族らは流罪とされ、その他は罪を許された。乱の規模のわりには寛大な措置であった。

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