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2012年10月20日 (土)

倭国の興亡153: 天武、律令国家を推進

 武力による王権簒奪に成功した日本史上唯一の例が、壬申の乱である。672年、壬申の乱に勝利した大海人は倭古京(飛鳥)に凱旋し、岡本宮の傍に宮室を建て、翌673年2月即位し天武天皇となる。
 大化の改新による国政改革は、白村江出兵や近江遷都により頓挫していたが、ここに新たな担い手・天武によって再出発した。
 天武朝の律令国家建設の特徴は、それを支えた諸豪族の本拠地・大和で実行した事だ。元々天智の近江への遷都の抵抗が大で、その近江方を支えた大豪族達に勝利した意義が大きく結果大王の地位が高まり、豪族の影響を排除した国造りを可能にした。
153  律令国家建設の第一の施策は、国家機構を支える官人層の創出であった。官人登庸法を策定し、畿内出身の官人として出仕するものを先ず大舎人として宮中の雑役に奉仕させ、その能力を見極め、相応しいポストに登用した。出自重視から才能重視への転換であり、同時に畿内重視の表れでもあった。
 676年には、畿外の人々にも出仕の道を開き、最初は宮城警備兵とした。
 官人層の誕生に伴い、勤務評定法を制定し、678年勤務評定(考)とそれに基づく位階の授与(選)の法が制定された。685年制定の位階皇子・諸王は12階、諸臣は48もの階級があった。

 第二の施策は、広域行政単位として「国」の創設である。従前は(コオリ)(=郡)の中に50戸ごとの編成があった。その評を幾つか束ねて「国」を作り、中央から派遣する行政官である国司(国宰)を派遣し、中央集権的支配系統の確立が図られた。国より広域支配を担当する大宰・総領があったが、国成立と共に廃止され、外交・防衛上特に筑紫大宰のみ大宰府として西海道諸国を統括した。
 行政領域としての国の設定開始683年であるが、在来の豪族の支配領域に国境としての線引きを行うのは困難を伴い、評の設定より大幅に遅れたようだ。
 一方評の構成分子である里は天智朝の50戸が変化したものである(683年頃)。50戸(=里)は賦課単位であったが、最初の庚午年籍(戸籍)は20年後の690年庚寅年籍まで更新されず、税や兵役負担に個人の顔が見えない民衆支配が伺える。税目は「調役」と言われ、物納(調)と労役(役)であった。

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