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2012年9月 3日 (月)

倭国の興亡142: 壬申の乱1 序章 兄弟不和

 乙巳の変(645年)以降、まだ少年であった大海人皇子も、その後兄・中大兄皇子を助け、朝廷内でも重要な地位を占めてきた。668年ようやく正式に即位した兄・天智天皇のもとで正式に東宮(=太子)に立てられたが、実質はそれ以前から天智の後継者の地位にあった。それは出自・年齢・経験から衆目の一致するところであった。天智紀では一貫して大海人を「大皇弟」としている。大王の弟に対する尊称であるが、太子(即ち皇太子)の意味もあり(否定する異説もある)、又太子に与えられる食封(湯沐)も所有していたので、正式の太子だったろう。
142_2  ところで、天智には多くの后妃がいたが、王子は3人だけで、且母の身分が低く後継の資格に難があったが、その中の大友王子「この皇子、風骨(風格と容姿)世間の人に似ず、実にこの国の分に非(アラ)ず」(懐風藻)と唐使・劉徳高に絶賛されたとあるように君主の器と言ってよかった。この時既に21歳で、天智の中では大友に皇位を伝えたいとの思いが強くなってきても不思議ではない。
 だが、大海人の存在があり、且つ皇位の嫡系継承の原則が無かった当時(兄弟継承がが原則)では、大海人との年齢・経験の差は如何ともし難く、且つ大友の母が伊賀の采女(後宮の女官)・宅子娘(ヤカコノイラツメ)で、卑姓の母を持つ者の即位の例が殆どなかった。

 一方、669年には長く天智を補佐してきた中臣鎌足の病が重くなり、天智自ら鎌足を見舞っている。そして危篤に陥ると、大海人を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授け、更に「藤原」の姓を与えた。翌日鎌足は身罷った。天智は大きな支えを失ったが、一方後継人事も含め、誰も遠慮せずに何事も行えるようになったのも事実である。

 そして、天智は671年正月、大友自己の後継に据える人事を断行した。即ち、太政大臣を新設し大友をその位につけ、その下に左右大臣を置き蘇我赤絵と中臣金をつけ、更に新設の御使大夫(後の大納言)には蘇我果安、巨勢人、紀大人を任じた。太政大臣は天皇に代り万機執り行うために置かれ、大海人に対抗したものである。
 この時点で、大海人は依然として太子の地位にいたものの、天智の後継者は大友皇子であることを表明したもので、大海人の立場は微妙なものとなった。  

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