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2012年9月22日 (土)

倭国の興亡147: [異説] 壬申の乱 根回しされた挙兵

 『書記』の大海人は、天智没後の翌年(672年)5月になり、大友の側の大海人殺害計画を知り、初めて挙兵決意したとある。6月吉野脱出を敢行した。
 書記では、この半年間、大海人は何ら手を打っていなかったようにあるが、事実は異なるという。大海人は美濃国安麿評の湯沐を拠点に挙兵したが、何の連絡や準備もなく吉野から美濃に飛び込むのは無理で、事前に水面下では頻繁な連絡と根回しがなされた見るべきだというのである。(次図は大海人一行が宿営した桑名評家所在地)
147_2  具体的には安八麿とその周辺の豪族に対する働きかけである。それが無ければ6月22日に吉野を発った村国男依らがわずか四日間で不破を封鎖できるだけの軍勢(書記では3千)を集めるのは到底不可能だったと思える。又、大友側の美濃での兵力動員情報を大海人に通報した朴井雄君は私用で美濃に赴いたとしているが、雄君のような大海人の舎人で美濃に多く関係者がいる者は頻繁に吉野と美濃を往還し、有事に備えたと思われる。
 大海人が次に打った布石で、大友馬来田・吹負兄弟との連絡がある。吉野にあった大海人には兵士がいなかったから、倭古京の攻撃は不可能だった。だから美濃で兵士も確保し、信頼出来る人物に倭古京攻略を任せるためには、当然吉野に引退後ひそかに大伴兄弟とは連絡を取り合っていた筈である。

 尚、壬申の乱に動員された兵力に、豪族私兵の割合は少なかった。大友、大海人両陣営とも、一定の兵力を徴発・動員するには実際民衆を支配している各在地の豪族とそれを国ごとに統括している国宰に依存せざるを得なかった。
 初の全国規模の戸籍「庚午年籍」は大海人の手になったもので、以前には考えられないほど容易、精確に兵士が徴発できるようになった。この庚午年籍を手元に持ち有利な条件を握ったのは、首都大津に在った大友の方だった。

 尤も、大友と兵を握る国宰とはあくまで、大王とその行政官僚という非人格的な関係でしかなかった。それ故、大海人は広汎な人脈を使い、諸国の国宰を狙って大海人に寝返るように執拗に工作を進めたようだ。尾張の国宰・小子部鉏鉤(キヒチ)が大友の命で集めた二万の兵を率いて大海人側に寝返ったのは、裏面工作の成功例であろう。 

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