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2012年9月26日 (水)

倭国の興亡148: 壬申の乱4 遅れを取った大友 

 大海人吉野脱出、東国入りの報を受けて、近江朝廷には動揺が広がった。直ちに騎兵部隊による大海人追撃をとの進言も大友は退け、大海人打倒の好機を逸してしまう。漸く軍議がが整い諸方に興兵の使者が派遣されたのは672年6月26日の朝、既に不破道が敵の軍勢に塞がれたあとだった。
148  27日。桑名評家で一夜過ごした大海人は、高市の要請に応え、不破へ歩を進めた。評家に至ると、尾張の国宰・小子部鉏鉤が二万の兵を率いて来季した。大海人はこの軍勢を以て諸方の道を塞ぎ、更に野上へ進み、仮宮を興した。高市の率いる軍は目と鼻の先の和蹔(ワザミ)にある。この後大海人はこの不破の本営を離れず乱後処分まで済ました。
 7月1日、東海、東山の諸軍が次々と到着し、大海人は2日攻勢に転じた。紀臣阿閉麻呂らに数万の兵を率いて伊勢より大和に向かわせ、村国男依にも数万の兵を率い近江へと進撃させた
 これら兵には敵軍と区別のための赤い布を着け、旗も赤とした(大海人が自らを漢の皇祖に擬えたからだともいう)。

 一方みすみすの好機を逸した大友は東国・ヤマト・吉備・筑紫に使者を派遣し、兵力動員をはかった。しかしこれが裏目となる。東国に向かった使者は不破の手前で相手兵に出合い逃げ帰ってしまう。又吉備大宰と筑紫大宰はかねてより大海人派と目されていた。吉備への使者は大宰を欺き殺してしまい、又筑紫大宰は、筑紫国は防備を固め外敵に備えており、兵を出せば無防備になると云って、動員に応じなかった
 この時に当り、近江側では山辺王、蘇我果安、巨勢臣人が数万の兵を率い不破を襲わんと結集していたが、内紛で山辺王は果安と臣人に殺され、軍は進まず、果安は自殺する。又近江の将羽田矢国は不破に来降し、大海人側の将軍として越に遣わされた。矢国は後に出雲狛と共に南下し、大友の北への退路を断つことになる。

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