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2012年9月 7日 (金)

倭国の興亡143: 壬申の乱2 大海人吉野へ脱出

 671年9天智は病の床に就く。翌月、大海人を病床に呼んだ。大海人は呼びに来た蘇我安麻呂から「心してお答えください」との忠告を受けた。これまで多くの策謀を用いて幾多の政敵を死に追いやった天智であり、ここは十分心得て、大海人は枕元に行った。
 天智「私は病が重い。後の事は全てお前に任せたい」という。この意味「大友を天皇として支えよ」の意である。皇大弟である大海人に皇位を任せるということではない。これに対し大海人「私は病を抱えた身で、とても天下の政を執ることはできません。王位は大后の倭姫様にお譲りになり、そのもとで大友皇子が太子に立たれて、政務を執られるのがよいでしょう。私は今日にでも出家して陛下のために仏道に励みたいと存じます」とそつのない返事をした。
143  出家の許しを得た大海人は、すぐに剃髪し、2日後、天智に暇乞いをし、吉野へと発って行った。左右大臣、御史大夫等が大津から菟道(宇治)まで送ったという。この中に、これを見て「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」言った人がいる。
 大津宮を脱した大海人一行はその夕べ嶋宮に到着し、一泊の後吉野宮に着いたという。(写真は嶋宮のあった嶋庄。石舞台古墳も嶋庄にある)
 この1ヶ月後、天智天皇は左大臣以下の5臣を集めて、天智の詔を奉じて、大友への忠誠を誓わせた。再度に亘る誓盟の中、遂に12月3天智は大津宮にその生涯の幕を閉じた。46歳であった。

 あけて672年、大友の主催する近江朝廷と吉野の大海人は、互いに慎重に相手の出方を伺っていたが、5月になって以下の知らせが大海人に届いた。
 朝廷は天智の山陵(ミササギ)の造営に事寄せ、美濃、尾張の両国の国宰に人夫の徴発を命じ、人ごとに武器を持たせている。又、近江京から倭京(飛鳥)に至る所々に斥候を置き、菟道(宇治)の橋守に命じて大海人の舎人が食糧を運ぶのを遮っているともいう。ここに至って大海人も挙兵を決意しもはや両者の争いは避けがたいものになった。

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