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2012年9月17日 (月)

倭国の興亡146: 壬申の乱3 遂に大海人起つ

 672年6月22日、大海人は行動を起こした。舎人(貴人の護衛)の村国男依(オヨリ)、和珥部(ワニベ)君手、身毛君広を呼び、「直ちに美濃国に赴き、安八磨(アハチマ)評の湯沐令・多臣品治(オオノオミホムジ)に当評の兵を発し、ついで国宰等を動かして諸軍を差発し、速やかに不破道を塞(フサ)げ」との命を発した。(註:(コオリ)=後の郡、湯沐=中宮・東宮に支給される食封(私領)、=長官、国宰=評の長官(国司))。
 不破は近江から東国に通ずる要衝の地である。大海人は自分の湯沐のある東国の要衝を抑え、交通を遮断し、そこに拠って挙兵しょうとしたのである。
146_2   6月24日、迷いをみせながらも、大海人は吉野を出発した。従ったのは20余人の舎人に、10人余の女嬬(メノワラワ)(召使)だけである。
 別に近江京へ使いを走らせ高市(タケチ)・大津の両皇子と伊勢で落ち合うべく伝えさせた。又不遇で大和に隠棲していた大伴連の馬来田(マクタ)・吹負(フケイ)にも使いが遣わされた。

 大海人一行は吉野を出て、津振川に沿って北上し、菟田の評家(郡役所)を経て日没には伊賀国境の大野に達した。更に燭をかざして夜行し隠(ナバリ)評を経て伊賀評に至るが、その山中に当国の評造(ミヤッコ)が数百の兵を率いて来帰した。
 勢いを得た一行は翌25日の明け方には莿萩野(タラノ)、更に積殖(ツムエ)の山口に至って、高市の一行と出会う。大津皇子と伊勢で落合うはずだったが、高市は一足早く鹿深の山を越え、ここで父の来るのを待っていたのだ。
 大山を越えて伊勢の鈴鹿評に至り、伊勢の国宰の帰順を得た大海人は直ちに500の兵を発して鈴鹿山道を塞ぎ、近江方の追撃に備えた。折からの激しい雷雨の中を寒さに凍えながら夜行し、三重評を経て、翌26日朝、朝明評の迹太(トオ)の辺についた。
 この時、
大津皇子の一行が鈴鹿より到着する。更に朝明評の近くで先に美濃に遣わした男依も駆けつけ、美濃の兵3千人を発して不破道占拠に成功したことを伝えた。これに大いに力を得た大海人は高市を不破に差し向け、軍事を監督させ、又東海・東山の両道に使者を遣わし本格的な兵力の動員をはかった。
 この夜、一行は
桑名評家(桑名市)で宿営し、久しぶりの睡眠がとれた。

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