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2012年9月

2012年9月30日 (日)

秋月を散策

 秋月は福岡・朝倉市北部の古処山の麓にあり、小京都とも称され、旧秋月藩の城跡が残り、城沿いにある桜並木花見頃に並木沿いに土産物店が並び、すごい渋滞を起こすほど人気がある。又、これからの紅葉の季節には周囲の山々や城内の紅葉が美しく、辺り一帯の散策に人気がありまた渋滞する季節になる。
Photo  処で、今の時期なら人出もなく簡単に行けると思い、一昨日の平塚川添遺跡見物後足を延ばし、行って見た。確かに人出は殆どなく、店も半分ぐらいしか営業していなくて、すいていて、静かで、ゆっくり散策できてよかったが、やや拍子抜けもした
Photo_3   秋月城石垣の一部、長屋門、黒門(県重要文化財)が残るのみで、城跡には今は中学校がある。又武家屋敷(家老などの高級武家)跡は石垣など少し残っているが、藩校や武道修練場の建物が記念館として残るだけで、殆ど水田や畑に変わっている。
Photo_4  秋月は1203年(鎌倉時代)、秋月(原田)種雄が秋月氏を興し豊臣秀吉に滅ぼされた徳川になり、福岡・黒田藩の藩領となり、黒田長政の3男長興が分領され、黒田家支藩の秋月藩5万石となった。
 「蜩の記」で受賞した作家・葉室鱗氏は北九州市生まれで、高校は朝倉の明善高校を出ているので、彼の小説『秋月記』は勿論秋月藩の話で、後の松本清張賞の『銀漢の賦』や直木賞の『蜩の記』架空の藩としながら秋月藩をイメージしたと思われる
 写真は現存の長屋門写真堀跡、左側が城壁、右側は馬場跡(現在桜並木)。写真は現在の桜並木(元杉の馬場)である。殆ど風化した感の城跡だが、周りの風景や古い歴史がにじみ出るように残っている雰囲気がなんとなく気を安らいでくれる処で、ここにはよく来る。

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2012年9月29日 (土)

国史跡・平塚川添遺跡を見に行く

 昨日、福岡県南部にある国史跡・平塚川添遺跡を見に行った。この遺跡は佐賀・吉野ケ里遺跡に次いで発掘され、「スワッ邪馬台国か!」と騒がれた環濠集落遺跡だが、これまで行く機会がなく、初めて見た。
Photo  この遺跡は、筑後川支流の小石川の氾濫原(河川の土砂堆積で出来る平野)で、約2千年前の弥生中期から古墳時代前期までの約300年間、人々が住み、弥生後期(2-3世紀)には集落を濠で囲んだ多重環濠集落跡である。
 低湿地帯に構築された環濠集落としては九州唯一の遺跡だから注目された
Photo_2  発掘確認された遺跡は、中央集落には2棟の掘立柱建物(復元祭殿:写真)があり、それを竪穴住居が取り囲んでいた。その北側には竪穴住居と対になる大型建物跡(復元首長館:写真)があり、高倉倉庫跡には中央集落と繋げる橋の跡もあった。集落西側には柵列跡(復元:写真)など確認された。
Photo_3  遺物は約300軒の住居跡からは多数の土器類、環濠からは高度な技術の建築部材(ネズミ返し、柱を支える板・礎板)など出土した。
 首長館付近からは小型仿製鏡(大陸の模倣品)が見つかり、佐賀・白壁白石遺跡出土品と同じ鋳型と判った。工房跡からは管玉や貨泉(中国の貨幣)が見つかっており、他地域との交流が伺える
 現地は平塚川添遺跡公園として整備され、写真のような復元建物が作られており、当時をしのばせる。又出土品は現地にはなく朝倉市歴史資料館に展示されている。 

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2012年9月26日 (水)

倭国の興亡148: 壬申の乱4 遅れを取った大友 

 大海人吉野脱出、東国入りの報を受けて、近江朝廷には動揺が広がった。直ちに騎兵部隊による大海人追撃をとの進言も大友は退け、大海人打倒の好機を逸してしまう。漸く軍議がが整い諸方に興兵の使者が派遣されたのは672年6月26日の朝、既に不破道が敵の軍勢に塞がれたあとだった。
148  27日。桑名評家で一夜過ごした大海人は、高市の要請に応え、不破へ歩を進めた。評家に至ると、尾張の国宰・小子部鉏鉤が二万の兵を率いて来季した。大海人はこの軍勢を以て諸方の道を塞ぎ、更に野上へ進み、仮宮を興した。高市の率いる軍は目と鼻の先の和蹔(ワザミ)にある。この後大海人はこの不破の本営を離れず乱後処分まで済ました。
 7月1日、東海、東山の諸軍が次々と到着し、大海人は2日攻勢に転じた。紀臣阿閉麻呂らに数万の兵を率いて伊勢より大和に向かわせ、村国男依にも数万の兵を率い近江へと進撃させた
 これら兵には敵軍と区別のための赤い布を着け、旗も赤とした(大海人が自らを漢の皇祖に擬えたからだともいう)。

 一方みすみすの好機を逸した大友は東国・ヤマト・吉備・筑紫に使者を派遣し、兵力動員をはかった。しかしこれが裏目となる。東国に向かった使者は不破の手前で相手兵に出合い逃げ帰ってしまう。又吉備大宰と筑紫大宰はかねてより大海人派と目されていた。吉備への使者は大宰を欺き殺してしまい、又筑紫大宰は、筑紫国は防備を固め外敵に備えており、兵を出せば無防備になると云って、動員に応じなかった
 この時に当り、近江側では山辺王、蘇我果安、巨勢臣人が数万の兵を率い不破を襲わんと結集していたが、内紛で山辺王は果安と臣人に殺され、軍は進まず、果安は自殺する。又近江の将羽田矢国は不破に来降し、大海人側の将軍として越に遣わされた。矢国は後に出雲狛と共に南下し、大友の北への退路を断つことになる。

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2012年9月25日 (火)

日本は時代遅れ?

 成熟社会とかいわれていますが、経済的に登りつめ、あとは下落の一途をたどりつつある日本では、国が、社会が、或は日本人が目指すべき方途が分かってないというか、無いのではないか。だからオバサンは韓流で騒ぐ、優秀な若者は海外の大学へ行き、海外で活躍する。
 その一端が今の尖閣、竹島問題でもあろう。中国や韓国が日本や亜米利加をめざし追いつき追い越そうとして目的・目標に向かって力一杯進んでおり、彼らには、日本との今後の付き合い方も当然従来と違ったものを持っていよう。
 ところが日本は従来と同じ感覚、考えで対処してないか、今現在の実態把握を前提に防衛も外交も、あらゆる国策も、向かうべき将来像を明瞭に作り出し、それに向かって国民をリードする政治が求められている。とテレビを見ていて感じた。
 今日は白い花(實)を撮ってきた。
Photo  ニガウリ(ゴーヤ)。白い或いはまだ青みがかってない普通のゴーヤはよく見掛けたが、このゴーヤは乳白色であり、表面の凸凹具合が普通のゴーヤとは異なり、又大きさもやや小さい。従来品種の改良による観賞用なのか。この棚には同じもの何個かぶら下がっていた。
Photo_2  
白色曼珠沙華。今曼珠沙華が花盛りで、彼方此方沢山咲いている。が、この白いのは数年前から出ている園芸用品種だ。勿論野原にはなく、花壇にしかないが、この花は墓などに多く、又毒性が強いため、忌み嫌われたものだが、園芸品種として庭に入るとは、変わったもんだね

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2012年9月24日 (月)

秋と夏、行ったり来たり

 昨夜、NHKで、尖閣並びに竹島に関し、有識者による討論会をやっていた。尖閣問題では日本在住の中国有識者対日本有識者、竹島では韓国在住有識者対日本有識者での討論。両方の討論共、テレビ放送、新聞紙上、雑誌誌上で見ている内容でさほど驚かなかったが、その合間に、中国、韓国とも小学校での授業でこれら諸島の領有権が自国にあることを丁寧に教えている情景が放送された。当然自国に有利な「歴史事実」だけを選んでの教育である。「三つ子の魂、百までも」じゃないが、この点日本は余りにも無防備すぎるという感を強くした。
Photo  毎朝、早朝に歩くと、ようやく日の出前に、この撮影地点につき、写せるのは空しかなく、最近は雲をよく撮る。今日も太陽が昇る東方はいつも通り朝焼けをし秋の雲が薄く広がっている。写真が秋の雲「巻雲」(通称:すじ雲)で、秋特有の雲で一番高い所に発生する雲である。
Photo_2  ところが、写真は、同時に真反対の西側を向いて撮影したもの。こちらはやや曇り気味で、ご覧のとおりに出る「積乱雲」(通称入道雲である。秋の雲と夏の雲が同時に出るなんて全く珍しいことだと、調べたら、今頃の空は変わりやすく、空では夏と秋が行ったり来たりしているので、雲も夏雲と秋雲入れ替わったり、同時に出ることがあると、気象予報士の話が載っていた。

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2012年9月22日 (土)

倭国の興亡147: [異説] 壬申の乱 根回しされた挙兵

 『書記』の大海人は、天智没後の翌年(672年)5月になり、大友の側の大海人殺害計画を知り、初めて挙兵決意したとある。6月吉野脱出を敢行した。
 書記では、この半年間、大海人は何ら手を打っていなかったようにあるが、事実は異なるという。大海人は美濃国安麿評の湯沐を拠点に挙兵したが、何の連絡や準備もなく吉野から美濃に飛び込むのは無理で、事前に水面下では頻繁な連絡と根回しがなされた見るべきだというのである。(次図は大海人一行が宿営した桑名評家所在地)
147_2  具体的には安八麿とその周辺の豪族に対する働きかけである。それが無ければ6月22日に吉野を発った村国男依らがわずか四日間で不破を封鎖できるだけの軍勢(書記では3千)を集めるのは到底不可能だったと思える。又、大友側の美濃での兵力動員情報を大海人に通報した朴井雄君は私用で美濃に赴いたとしているが、雄君のような大海人の舎人で美濃に多く関係者がいる者は頻繁に吉野と美濃を往還し、有事に備えたと思われる。
 大海人が次に打った布石で、大友馬来田・吹負兄弟との連絡がある。吉野にあった大海人には兵士がいなかったから、倭古京の攻撃は不可能だった。だから美濃で兵士も確保し、信頼出来る人物に倭古京攻略を任せるためには、当然吉野に引退後ひそかに大伴兄弟とは連絡を取り合っていた筈である。

 尚、壬申の乱に動員された兵力に、豪族私兵の割合は少なかった。大友、大海人両陣営とも、一定の兵力を徴発・動員するには実際民衆を支配している各在地の豪族とそれを国ごとに統括している国宰に依存せざるを得なかった。
 初の全国規模の戸籍「庚午年籍」は大海人の手になったもので、以前には考えられないほど容易、精確に兵士が徴発できるようになった。この庚午年籍を手元に持ち有利な条件を握ったのは、首都大津に在った大友の方だった。

 尤も、大友と兵を握る国宰とはあくまで、大王とその行政官僚という非人格的な関係でしかなかった。それ故、大海人は広汎な人脈を使い、諸国の国宰を狙って大海人に寝返るように執拗に工作を進めたようだ。尾張の国宰・小子部鉏鉤(キヒチ)が大友の命で集めた二万の兵を率いて大海人側に寝返ったのは、裏面工作の成功例であろう。 

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2012年9月21日 (金)

正しい日本語を教えよう

 2011年の国語に関する世論調査の結果を文化庁が発表した。それを見る限り「腹が立つ」ことを「むかつく」と表現する若者が半数を超えたという。若者の言葉の乱れを嘆けく前に、年配者の方々の国語力も如何であろうか。試しに次の言葉の意味は合っているでしょうか。
うがった見方をする=「疑ってかかるような見方をすること」とした人が48.2% にやける=「薄笑いを浮かべている」とした人が76.5% 失笑する=「笑いも出ないくらい呆れる」とした人が60.4%。と言うような記事が出ている。正解か否か、回答は末尾をご覧ください。
Photo  今日の花の紹介は、アオバナフジバカマ(青花藤袴)。西洋藤袴とか洋種藤袴ともいう由。英名はミストフラワー(mistflower)、言い得ている。散歩の道沿いの家の庭に咲いていたもので、遠くからは白く霞んで見えた。正しく霧なのだ。アゲラタムと言う花にも非常によく似ているが、葉の形が違うようだ。

 上文の正解物事の本質を捉えた見方をすること。(正解率26.4%) なよなよとしている。(正解率14.7%) こらえ切れずに吹き出して笑う。(正解率27.7%)

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2012年9月20日 (木)

2030年原発ゼロ厳守すべし

 一昨日の、2030年原発ゼロとする方針の閣議決定が、昨日の経済界からの強い撤回要請発言に、野田内閣はここ当面の原発維持方針を容認する姿勢に変化。当初より、経済界からは反発が予測できた中での閣議決定かと思いきや、さにあらず。又もや政府方針が揺らいでいる。野田さんには確固たる信念があるのか、消費税引き上げよりもっと強い態度で貫き通すべき問題でないのか。ここで逡巡すればもはや民主党政権は終りであることが判ってない。残念である。険しい外交・内政問題の中、季節は移りつつある。その兆しの花。
Photo  ニラ(韮)。今、民家の庭や公園で韮の花が咲いている。多分食用ではなく、園芸の観賞用に植えられているものだろう。今頃、即ち夏の終わり、秋の始まり頃、数少ない庭の花だろう。白くて清楚だ。
Photo_2  :ヒガンバナ(彼岸花)。別名というより、本名「曼珠沙華」、今年は遅れているようで彼方此方群生して咲き乱れる筈が今の所咲いてない。そんな中、律儀に彼岸に咲いた曼珠沙華を見つけたので撮った。

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2012年9月18日 (火)

混迷極める尖閣問題

 基本的には両国共に「固有の領土」と領有権を主張しているが、現実には明治になるまでどちらにも領有されていなかった。明治以降、日本人漁業関係者がこの島に立ち入り、やがて漁業の処理工場なども設置され、住む人も出てきた。所謂日本による実効支配が国際的にも認められてきた島であると理解している。
 琉球地域が、太平洋戦争後、米国による国連信託統治地域となった。が、1953年奄美地区のみの日本への返還決定時、残る沖縄県の範囲を確定した際の「人民日報」には、尖閣は沖縄の一部として載せている。ところが、1970年初頭、国連アジア極東経済委員会の報告書が出た頃から、中国は尖閣は中国の領土だと言い始めた。多分海底資源(原油)の開発に絡むと思われる。
 そして、日中平和条約が締結されたとき、中国は「次世代の知恵に任せる」としたが、日本はこれを領土問題と認めてはいない。やがて中国外交部の領海法草案には尖閣は入っていないが1972年の領海法で、尖閣を中国領と明記した
 こんな経過を経て今日に至っている。これを「中国の固有の領土」というのであろうか
更に、尖閣の問題外のいろんな要素が絡み合っての中国の対応であり、日本は軽率に本質でない問題に振り回されぬよう留意が肝要であろう。
 混迷深める難題をさておき、今日は珍しい花を紹介。
Photo  アカバナ(赤花)。アカバナ属アカバナ、或はイワアカバナと称するもの。アカバナには種類が多く夫々若干花が違うようだ。これは公園の花壇に咲いているものだが、北海道から九州の各地の平地の水湿地に自生するという。特に湿地では群生する多年草だそうだ。

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2012年9月17日 (月)

倭国の興亡146: 壬申の乱3 遂に大海人起つ

 672年6月22日、大海人は行動を起こした。舎人(貴人の護衛)の村国男依(オヨリ)、和珥部(ワニベ)君手、身毛君広を呼び、「直ちに美濃国に赴き、安八磨(アハチマ)評の湯沐令・多臣品治(オオノオミホムジ)に当評の兵を発し、ついで国宰等を動かして諸軍を差発し、速やかに不破道を塞(フサ)げ」との命を発した。(註:(コオリ)=後の郡、湯沐=中宮・東宮に支給される食封(私領)、=長官、国宰=評の長官(国司))。
 不破は近江から東国に通ずる要衝の地である。大海人は自分の湯沐のある東国の要衝を抑え、交通を遮断し、そこに拠って挙兵しょうとしたのである。
146_2   6月24日、迷いをみせながらも、大海人は吉野を出発した。従ったのは20余人の舎人に、10人余の女嬬(メノワラワ)(召使)だけである。
 別に近江京へ使いを走らせ高市(タケチ)・大津の両皇子と伊勢で落ち合うべく伝えさせた。又不遇で大和に隠棲していた大伴連の馬来田(マクタ)・吹負(フケイ)にも使いが遣わされた。

 大海人一行は吉野を出て、津振川に沿って北上し、菟田の評家(郡役所)を経て日没には伊賀国境の大野に達した。更に燭をかざして夜行し隠(ナバリ)評を経て伊賀評に至るが、その山中に当国の評造(ミヤッコ)が数百の兵を率いて来帰した。
 勢いを得た一行は翌25日の明け方には莿萩野(タラノ)、更に積殖(ツムエ)の山口に至って、高市の一行と出会う。大津皇子と伊勢で落合うはずだったが、高市は一足早く鹿深の山を越え、ここで父の来るのを待っていたのだ。
 大山を越えて伊勢の鈴鹿評に至り、伊勢の国宰の帰順を得た大海人は直ちに500の兵を発して鈴鹿山道を塞ぎ、近江方の追撃に備えた。折からの激しい雷雨の中を寒さに凍えながら夜行し、三重評を経て、翌26日朝、朝明評の迹太(トオ)の辺についた。
 この時、
大津皇子の一行が鈴鹿より到着する。更に朝明評の近くで先に美濃に遣わした男依も駆けつけ、美濃の兵3千人を発して不破道占拠に成功したことを伝えた。これに大いに力を得た大海人は高市を不破に差し向け、軍事を監督させ、又東海・東山の両道に使者を遣わし本格的な兵力の動員をはかった。
 この夜、一行は
桑名評家(桑名市)で宿営し、久しぶりの睡眠がとれた。

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2012年9月16日 (日)

風雲急を告げてきた

 台風16号が近づき、文字通り風雲急だが、その中で、尖閣の国有化を決めた日本に対し、中国内でのデモが激化し、中国政府も何らかの措置を講じる可能性も強くなっている。
 一方国内の民、自の党首選。民主は野田さん続投が強そうだが、自民は派閥背景で国会議員票を固める石原さん、対する脱派閥を掲げ、地方票を固める石破さんの二人が強く、それに安倍さんが絡むという構図になりつつある。
 次の総理の可能性も高く外交共々予断を許さぬ重要事だ。派閥政治から抜け出せない日本の政治は未だ民主主義も未熟だとの評論家指摘もあるが、まずは無関心派が多いことが成熟を妨げているのでないか。
 今日は雨が小止みの中で撮った写真2枚。
Photo  コバノセンナ(小葉の栴那)。マメ科の花で学名カツシア和名は花センナの中の葉が細い園芸種の『アンデスの乙女』というそうだ。民家の庭に咲いていたもの。南アメリカ原産で、日本では九州以南では冬を越す。宮崎・日南海岸で群生している由。
Photo_2  カタツムリ(蝸牛)。よく雨が降るので、カタツムリも彼方此方闊歩しているのか。子供の時分はよく蝸牛で遊んだものだ。デンデンムシ「出ん、出ん虫(出ろ出ろ虫)」と子供が囃したから、又マイマイ「舞え舞え」と囃したからという。
 唱歌「かたつむり」は作者不明。「ツノ出せ、ヤリ出せ・・・」のヤリは何のことか不明の由。俳句にも多く詠われ、人には愛される虫ではある。

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2012年9月14日 (金)

倭国の興亡145:[異説] 壬申の乱変節は大海人

 天智の同母弟で、大化の改新の良き協力・推進者であった大海人皇子は大皇弟と呼ばれ、有力な王位継承者であった。がこれは日本書紀の欺瞞であるという説。
 大海人の大皇弟は一見、後世の皇太弟(天皇の弟で、皇太子の地位にあるもの)と似ているが異なる。大皇弟(オオスメロド)は同母関係中の長子即ち大兄でなくとも王族内部で一定の地位と財産の保有を認められた有力王族の事である。
Photo   大海人の大皇弟とは、天智の同母弟という資格で天智の執政を補佐する地位にあった。必ずしもその即位が期待さていたわけではなかった
 若いときから兄を補佐し、天智の考える新しい王位継承の実現のために協力する立場にあった。即ち従来の世代・年齢による王位継承に代って、血統による王位継承を実現するため、天智と彼の血を引く特別な血統を持つ皇子を生みだすため、結果的に兄の娘を4人も妻に迎えた。(系図参照)。そればかりでなく、天智の長子・大友皇子に自分の娘・十市皇女(母は額田王)を嫁がせた。

 大友皇子を天智の後継者にするという構想は、天智・大海人双方の血を引く皇子(大津皇子や草壁皇子)が幼年のためすぐには即位できないので、「中継ぎ」ということで採択されたものである。従って天智の考えた王位継承案の修正案なのであって、その限りでは大海人も同意し、協力すべき関係にあった。

 だが、天智の死後、大海人が結果的に決起した事実から明らかなように、彼は兄天智の構想への同意と協力を土壇場になって放棄した。壬申の乱の前夜、天智の変節が内乱の原因の様にいわれるが、事実は変節したのは大海人皇子その人だったのである。
 大海人の即位資格は絶対的なものではなかった。換言すれば彼が既得権益を侵されたので、
止むにやまれず立ち上がったという見方は間違いである。

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2012年9月12日 (水)

放生会始まっても、未だ”晩夏”?

 今朝の新聞で、「もう初秋というかまだ晩夏というか・・・」なる記事があり、確かに暑く、朝は23℃前後で初秋だが、昼は30℃前後で晩夏なのだ。今秋一杯はこの暑さが続くとか。
 とは言っても、福岡三大祭り、ドンタク、山笠に続く箱崎宮放生会(ほうじょうやと呼ぶ)が今日から始まる。放生会とは生き物を慈しむ祭りである。
 筥崎宮は「箱崎八幡」ともよばれ、応神天皇(八幡大神)、神功皇后(応神天皇の母君)、玉依姫命(海の神で神武天皇の母君)の御3神が祀られているが、放生会は12日から18日まで1週間続く。12日神輿行列が頓宮へ「御下り」し、13日は本宮へ帰る「御上り」が行われる。
 18日は放生神事と稚児行列で締めくくられるが、この間各種神事が毎日行われ、国道の大鳥居から楼門までの参道の両側に700店の露店が並び、参拝客は百万人を超える。
 この露店での名物は数に限りがるものの「博多ちゃんぽん」ガラスのビードロ)と、新生姜である。これが欲しいばかりの遠方からの参拝者も多く、周辺道路が大渋滞を起こす。
 この祭りが来れば、ああ秋になったと感じたものだ。

Photo  そんな季節に、以前「似た花、オクラとハイビスカス」を紹介したが、オクラにソックリというトロロアオイは花に巡り合えずにいたが、今朝公園の端の花壇で開花しているのを見つけた。写真の様にオクラにソックリの花であり、花の上の実もよく似ているが少し小さく、又葉は形が違う。(写真の花の後ろの葉はトロロアオイの葉ではない)
 トロロアオイ(黄蜀葵)はハナオクラとも呼ばれ、これもやはり1日花で朝咲いて夕方には閉じる。根から採取される粘液は「ネリ」と呼ばれ、昔から和紙の繊維の分散及び糊として使用されている。蒲鉾や蕎麦のつなぎとしても使用され、漢方の成型に使われるという。
 実は食べれないことはないが不味く、花弁を酢のものして酒のあてにするそうだが、風流を好んでのことだろう。

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2012年9月11日 (火)

倭国の興亡144: [異説] 壬申の乱の要因

 「壬申の乱」については、数回に渡り極く一般的な通説を紹介して行くが、近年従来の通説に対し、多くの異論(真説?)が出されているので、それは[異説]壬申の乱として適宜紹介してゆくことにする。
 従来の通説の論拠である「日本書紀」は天武天皇(大海人)の命により編纂されたもので、それ以降の支配層に都合のいい記述となっているのは否めないから、敢えて客観論的な[異説]を記載する次第である

 今回はまず壬申の乱の勃発の要因を考える。壬申の乱の原因は王位継承問題であったことは間違いない。しかし、それは単純な血統的条件ではなかった。
 6世紀以来、大王には大王としての人格・資質、それを保証する客観的条件としての世代・年齢らが重視されて、支配者集団の豪族個々の意志によって選ばれた。
 そして、継承争いが激化するとき、これを鎮静化するために大后が即位したのである。尚、女帝には王位継承資格を持った皇子への生前譲位実現を負わされた。
144  まず、病床の天智が大海人に言ったのは、書記の天智紀では「朕、疾甚だし。後事を以て汝に属く」とある。即ち後事は「大友の擁立に協力し、大海人に後見してほしい」なのである。一方、同じ書記の天武紀・上には「天皇、東宮に勅して鴻業(アマツヒツギノミコト)を授く」とあり、「大王位を譲る」と言ったとある。は大海人が落延びた吉野
 通説は後者を選択しているが、本当は前者であったと思われる。ここで既に大海人が善であり、天智が悪の構図が作為されている
 だから、天智が大海人を呼んで「後はお前に任せる」と言ったのに対し、これを謝絶した大海人「代わりに天智の皇后・倭姫王(大后)の即位と大友皇子がその補政の任に当たること」を進言したのは、非常に意味深いものがある。
 即ちこの返答は身の危険を感じた大海人が自身の保身を図ったことは間違いがない。女帝擁立は王位継承問題の保留であり、いずれ女帝からの譲位によって新大王が決まることを意味し、取りも直さず大海人自身の大王即位の可能性を残した
 このように乱の発端とその後の争乱の本質は、天智同世代の大海人か、次世代の大友皇子を支持するかの対立が背景にあって、大王として擁立するに相応しい人格と資質を保証する世代・年齢を巡る対立が、支配者集団を二分する内乱にまで発展したものだったと考えられる。具体的な詳細は次回以降詳述。

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2012年9月10日 (月)

群れて花咲く山野草2

 野田さん、APEC首脳会議で各国首脳と個別に短時間ながら話し合った由。外交下手の日本との定評があるそうだが、大いに場数を踏んで、”成果”を挙げてほしいものだ。それにしても12月に訪露の約束をプーチン大統領と交わしたとあるが、12月までは大丈夫なのかな。
 前回に次いで群れてる山野草。
2  センニンソウ(仙人草)。一度掲載したが、こんなに群れて咲いてるセンニンソウは初めてなので、再掲。これは池の傍で見たものだが、今年は他では一向に見かけない。どう考えても植生にも異常があるように感じる
Photo_2  白百合(テッポウユリ?)。これは山裾の切通しの斜面に咲いているもの。百合もこんな風かたまってあちこちと咲き乱れている。ここは百合に適地(斜面で水はけがよい)か毎年咲くが、こんなに群れては咲いているのは初めて。

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2012年9月 8日 (土)

群れて花咲く山野草

 民・自両党の党首選。先ず民主党、主・反主流のせめぎ合いかと思う内、忽然と若手中心に、細野氏擁立論が起こった。と、党内多数の支持が出始めた。まるで若き天草四郎を戴いての島原の乱だ。次期総選挙に不安な若手の策謀か。しかし冷静沈着な細野氏は乗らなかった。総選挙後の民主党如何が問題だから、野田さんで行くのが順当なところか。
 一方自民党。こちらは相変わらずの派閥的抗争。自推、他推の候補予定者が乱立気味。総選挙後も通じて党首たり得るか否かがポイントになりそうだが、正しく群れて、離合集散、少し整理をと大島副総裁が動くが効なし。こちらは総選挙に向けた顔見世候補も多いようだ。谷垣さんは戸惑っている。
Photo  こんな群れとはいささか異なるが、すっかり秋めいて朝夕の気温低下と共に、酷暑で萎れていた山野草が急に元気になって、新たに花をたくさんつけ始めた。その内群れて花を付けている元気な山野草を紹介
Photo_2  小待宵草。公園の近くの草叢で、他の雑草を征圧して元気に花を咲かせているヘクソカズラ。フェンスや生垣、花壇、草叢と処構わず繁茂し、それが今一斉に花盛り。両方とも、小生の今夏のブログに掲載済みだが、この群生の現象は異常な気がして紹介した。

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2012年9月 7日 (金)

倭国の興亡143: 壬申の乱2 大海人吉野へ脱出

 671年9天智は病の床に就く。翌月、大海人を病床に呼んだ。大海人は呼びに来た蘇我安麻呂から「心してお答えください」との忠告を受けた。これまで多くの策謀を用いて幾多の政敵を死に追いやった天智であり、ここは十分心得て、大海人は枕元に行った。
 天智「私は病が重い。後の事は全てお前に任せたい」という。この意味「大友を天皇として支えよ」の意である。皇大弟である大海人に皇位を任せるということではない。これに対し大海人「私は病を抱えた身で、とても天下の政を執ることはできません。王位は大后の倭姫様にお譲りになり、そのもとで大友皇子が太子に立たれて、政務を執られるのがよいでしょう。私は今日にでも出家して陛下のために仏道に励みたいと存じます」とそつのない返事をした。
143  出家の許しを得た大海人は、すぐに剃髪し、2日後、天智に暇乞いをし、吉野へと発って行った。左右大臣、御史大夫等が大津から菟道(宇治)まで送ったという。この中に、これを見て「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」言った人がいる。
 大津宮を脱した大海人一行はその夕べ嶋宮に到着し、一泊の後吉野宮に着いたという。(写真は嶋宮のあった嶋庄。石舞台古墳も嶋庄にある)
 この1ヶ月後、天智天皇は左大臣以下の5臣を集めて、天智の詔を奉じて、大友への忠誠を誓わせた。再度に亘る誓盟の中、遂に12月3天智は大津宮にその生涯の幕を閉じた。46歳であった。

 あけて672年、大友の主催する近江朝廷と吉野の大海人は、互いに慎重に相手の出方を伺っていたが、5月になって以下の知らせが大海人に届いた。
 朝廷は天智の山陵(ミササギ)の造営に事寄せ、美濃、尾張の両国の国宰に人夫の徴発を命じ、人ごとに武器を持たせている。又、近江京から倭京(飛鳥)に至る所々に斥候を置き、菟道(宇治)の橋守に命じて大海人の舎人が食糧を運ぶのを遮っているともいう。ここに至って大海人も挙兵を決意しもはや両者の争いは避けがたいものになった。

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2012年9月 6日 (木)

行方定まらず

 民・自両党の党首選、両党とも決定的党首候補が定まらず、右往左往している状況。国民から見れば、当然両党とも、次期党首は誰であるべきか決まっているものと思っていたが、然に非ず、此れから党内論議により決まるという。民主的だが、あくまで党内民主的、国民とは乖離した感が否めない。総選挙に対応し如何すべきか党内の話であるが、民主・細野氏が国民的人気が高いという。民主党も困るねえー
 今日は初秋の花ではないが、今艶やかに咲いている花を紹介。
Photo  ムラサキツユクサ(紫露草)。この花初夏から梅雨頃咲く花だが、今年はその頃天候不順で、きれいな花が付かず、今頃、返り花がきれいに咲いている。この花も、朝咲いて夕方萎む1日花であるが、次々と綺麗な花をつけてくれている。
Photo_2  フヨウ(芙蓉)。原産地中国で、沖縄、九州、四国には自生する由。大柄な花でよく目立つが、これも1日花で、朝白く夕刻ピンクになるのが酔芙蓉水芙蓉は蓮のこと。

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2012年9月 5日 (水)

新涼とへちま

 新涼とは、秋の初めの涼しさをいい、丁度今頃の事である。正岡子規の句『夕顔と糸瓜(ヘチマ)残暑と新涼と』がある。この場合の糸瓜は勿論実のことであろう。花は8月頃から咲き、今頃(新涼の頃)は花と一緒に、実がぶら下がっている。
 『へちま』とは、本来繊維が採れるので『いとうり』と称したが、これがつづまり「とうり」となった「と」は「いろは」で「へ」と「ち」の間(ま)にあるのでヘチマと呼び糸瓜と書く。
 ヘチマの水は化粧水に用いるが、飲み薬として咳止め、むくみ、利尿に効くという。子規の『痰一斗糸瓜の水も間に合わず』はこの効用から来たものである。
 で今日の写真はへちまと今が盛りのケイトウ
Photo  ヘチマ(糸瓜)の花。今はやりの
ニガウリ(ゴーヤ)と同じ棚に糸瓜が植わっており、こんな花をつけている。周りの葉はゴーヤ(左横の小さな黄色の花)の葉であり、糸瓜の葉は手のひらより大きい位だが、実と共に隠れて見えない。
Photo_2  ケイトウ(鶏頭)。植っ放しの花が咲いた感じ。園芸用の立派なものではないが、季節には芽をだし花をつけたという感じがいい。ケイトウも本来夏の花だが、
余りの暑さに咲き遅れ今頃開花したようだが、やはり自然に咲いたのがいい

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2012年9月 3日 (月)

倭国の興亡142: 壬申の乱1 序章 兄弟不和

 乙巳の変(645年)以降、まだ少年であった大海人皇子も、その後兄・中大兄皇子を助け、朝廷内でも重要な地位を占めてきた。668年ようやく正式に即位した兄・天智天皇のもとで正式に東宮(=太子)に立てられたが、実質はそれ以前から天智の後継者の地位にあった。それは出自・年齢・経験から衆目の一致するところであった。天智紀では一貫して大海人を「大皇弟」としている。大王の弟に対する尊称であるが、太子(即ち皇太子)の意味もあり(否定する異説もある)、又太子に与えられる食封(湯沐)も所有していたので、正式の太子だったろう。
142_2  ところで、天智には多くの后妃がいたが、王子は3人だけで、且母の身分が低く後継の資格に難があったが、その中の大友王子「この皇子、風骨(風格と容姿)世間の人に似ず、実にこの国の分に非(アラ)ず」(懐風藻)と唐使・劉徳高に絶賛されたとあるように君主の器と言ってよかった。この時既に21歳で、天智の中では大友に皇位を伝えたいとの思いが強くなってきても不思議ではない。
 だが、大海人の存在があり、且つ皇位の嫡系継承の原則が無かった当時(兄弟継承がが原則)では、大海人との年齢・経験の差は如何ともし難く、且つ大友の母が伊賀の采女(後宮の女官)・宅子娘(ヤカコノイラツメ)で、卑姓の母を持つ者の即位の例が殆どなかった。

 一方、669年には長く天智を補佐してきた中臣鎌足の病が重くなり、天智自ら鎌足を見舞っている。そして危篤に陥ると、大海人を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授け、更に「藤原」の姓を与えた。翌日鎌足は身罷った。天智は大きな支えを失ったが、一方後継人事も含め、誰も遠慮せずに何事も行えるようになったのも事実である。

 そして、天智は671年正月、大友自己の後継に据える人事を断行した。即ち、太政大臣を新設し大友をその位につけ、その下に左右大臣を置き蘇我赤絵と中臣金をつけ、更に新設の御使大夫(後の大納言)には蘇我果安、巨勢人、紀大人を任じた。太政大臣は天皇に代り万機執り行うために置かれ、大海人に対抗したものである。
 この時点で、大海人は依然として太子の地位にいたものの、天智の後継者は大友皇子であることを表明したもので、大海人の立場は微妙なものとなった。  

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2012年9月 2日 (日)

秋への道遠し

 早朝ウオーキング時22-23度。大変爽やかで余り汗ばむこともなくなったが、昼間は32-33度と真夏。結果、出歩く事も少なく、テレビと本を相手にグータラ生活を過ごしている。
 今日も、その朝の歩きで見る秋の花たちを紹介。
Photo  メランポジューム。昨日に続きキク科だが、これは花径が3cmほど。ありふれた感じの花だが、メキシコ周辺原産で、日本渡来は1999年と新しい。花期は7-11月と長く、暑さに強いので、今夏でも昼間も萎れず元気に咲いている。
Photo_2  センニンソウ(仙人草)。雑草の中、蔓を張って一面に咲く花だが、これは7月の草刈りに合い、わずかに残ったもの。4本の花弁に見えるのは蕚片で、本当の花弁がないという。いい香りがするが、有毒植物で、馬も喰わぬので、ウマクワズの名がある
Photo_3  レモン(檸檬)。5月25日のブログに花を載せたが、その木にこのように檸檬がなっている。この辺りではこの木以外には檸檬はない本来高温多湿の日本には向いていないというが、この木は毎年沢山実をつけ、秋に色づき、冬までの間収穫される。

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2012年9月 1日 (土)

秋の訪れ

 民・自両党が党首選を控え、且つ総選挙が近いとあって、国会議員の皆さんは地に足がついてない感じである。このような状況下ではできるだけテレビに出たがり、いろんな先生方が日本の在り方や日本の将来について語られるが、夫々勝手なことを滔々とお話になる。本当に日本を背負って立つ覚悟の方はどれほどいらっしゃるのか。それとも今は日本が大きく変わる節目に来ている証なのか
 今日はありふれた秋の花・マリーゴールド花は同じなのに葉が違う、何故か?
2  
図鑑を検索すると両方ともマリーゴールドとして掲載されている。そもそも、マリーゴールドとはキク科コウオウソウ属の草花としての栽培植物の総称とある。然るに別の頁では、キク科マンジュギク属とある。どうもこの辺り、はっきりとされてないらしい。
1  この花は春から秋までかなり
長期に咲く少々水不足でも、平気でよく育つというので、公園や、家庭の花壇に愛用されるらしい。マリーゴールドとは「聖母マリアの黄金の花」の意で立派な名前だ。

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