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2012年8月15日 (水)

倭国の興亡138: 対中国・半島の国土防衛策

 白村江に於いて、唐軍に惨敗し、新羅が半島で勢力を伸ばそうとしている状況下、倭国は本土来攻を前提とし、和戦両面ながらも国土防衛体制の強化に躍起となった。
 敗戦の翌664年には、百済の亡命貴族を登用し、対馬・壱岐・筑紫に、防人(サキモリ)烽火(ノロシ)を設置、筑紫には「大宰府」と水城の造営をすすめた。防人はサキ=辺境+モリ=守備であり、国境警備隊である。烽火は火を打ち上げ危急を伝達する施設であり、両者がセットで機能した。
138  水城は水を蓄えた運河状のもので、敵の来襲を防ぐ施設である。写真の遺跡は大宰府・大野城両市の境付近にあり、高さ13m、基底部幅80mの土塁で塞いでいる。外側に約60m深さ4mの巨大な堀跡が発見され、土塁と外堀で内側を防守しようとしたものである。この時、博多の筑紫太宰(大宰府の前身)を現在の大宰府跡に移転したと見られる。(写真の中央部縦に木が茂っている部分が水城部分
 更に翌665年には、長門と大宰府の北と南に大野・椽(キ)(基肄)の2か所に朝鮮式山城を百済亡命貴族に築かせた。尤も後者(2城)は大宰府が非常の際の逃げ込み城とも思われる。
138_2  この頃、半島での唐の高句麗征討、新羅の百済遺民の平定など戦況は緊迫する中、
667年3月に、近江大津への遷都が実行された。当然、この遷都は防衛上の観点によるものである。そして10月には 対馬に金田城、讃岐に屋島城、大和に隆康城が築かれ、各所に防衛施設が配備された。図は備前に築かれた朝鮮式山城「鬼の城」跡の石塁で、標高400mの山上は城壁周囲2.8キロと云う広さ。
 この間、
666年1月、668年7月に高句麗の使者が来朝し、半島情勢を倭国に伝えたことも、この防衛施設や遷都への影響を与えたであろう。 

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