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2012年8月19日 (日)

倭国の興亡137: 白村江敗戦後の半島との緊張関係

(おことわり)前回、本稿「倭国の興亡137」を飛ばし、「138」を先にアップロードしています。故に前後逆となりましたが、本日「137」をアップロードします。

 663年、8月白村江での大敗後、9月からは倭の軍勢は撤退を開始しているが、同時に倭国は唐・新羅連合軍の本土来攻の危機に直面した。しかし、翌664年5月、百済遺領を統治していた唐の劉仁願が、郭務宗を遣わし、表函(フミハコ)と献上品を奉っており、表面的には戦勝国としての要求はない。この時入京は許さず、中臣鎌足らを筑紫に派遣している。
137  翌665年9月には唐本国から、劉徳高が、百済使節と郭務宗を率い、筑紫に来朝。一行は倭国の捕虜を含む254人で、入京を許されているので、敵対的な使節とは考えられていない。更に2年後(667)の11月、劉仁願が司馬法聡を派遣し、遣唐使として唐に滞在中で、戦争のため帰国できなかった境部連石積らを送還してきた。こうした一連の動きは。恐らく対高句麗との戦争に関連し、倭国を牽制するためだったろう。
 事実、666年9月、唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼしており、この頃までは本土来攻の危機はなかったであろうが、国土防衛の準備はまだまだ必要であったろう。(665年頃築城の朝鮮式山城・「鞠智城」。筑紫の最前線に武器・食糧・兵器を供給するために作られたもの

 ところが、670年唐と新羅の間に戦端が開かれ、翌671年正月には、劉仁願が李守真を派遣し、倭に対新羅参戦の打診をしてくるなど唐との緊張関係は薄れ11月には郭務宗が、百済の難民と倭国の捕虜など、二千人を対馬に送還し、戦争状態は終結したと解される。
 新羅が唐を半島から駆逐するのは、676年であるが、この間も直接的な脅威はないものの、緊張関係は維持する必要があったであろう。

 以上、外交の延長線上に軍事政策がある限り、中大兄(天智天皇)としては、少なくとも、本土来攻を前提として、和戦両様の政策を立て、準備する必要があったであろう。具体的に実施された政策、軍事上の防備対策は次回以降に記述する。 

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