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2012年8月 9日 (木)

倭国の興亡136: 唐の半島支配と新羅による統一

 百済鎮圧後、唐は捕虜としていた百済・義慈王の太子、扶余隆を熊津都督に任じ百済に遣わした。旧王族の都督起用で百済遺民の抵抗を鎮静化し、且新羅王家と和睦させ、百済を唐の植民地として永く治めようとした。664年、唐は新羅・文武王の弟を熊津に呼び、百済鎮将(百済占領軍の将軍)劉仁願の立会のもと、百済太子・扶余隆と中国古来の会盟で和親を誓わせた
 倭国に対しても修交をはかり、百済人・郭務宗を派遣した(詳細は次回)。翌665年、唐は再び新羅王に会盟を要請し、再び熊津で和親の誓いをさせ、又倭国にも使節派遣をしている(詳細次回)。

 668年高句麗が滅亡すると、唐は平壌に安東都護府を置き、唐将を都護に任じ、ここにも羈縻支配(中国が外族行政組織をそのままにして支配)をしいた。こうして、百済・高句麗滅亡後、半島では唐主導での新しい支配体制が構築されそうであったが、新羅にとっては唐の後ろ盾による百済の旧王族支配が存続している現実は容認しがたく、また高句麗が唐の植民地支配下にあることも脅威であった。
136  670年、遂に新羅が決起した。公然と旧百済領を進撃し82城を奪い、翌年には泗沘城も占領。旧百済領の大半は新羅の支配下に入った。674年には唐は新羅王の官爵を剥奪する。新羅は謝罪使を唐に派遣する一方で、唐軍との戦闘を継続し、硬軟取り混ぜた戦略に唐も半島支配を断念し、674年には熊津都督府、安東都護府を唐の本土に引き上げた。
 こうして新羅は、旧百済領と旧高句麗領を共に支配下に置き、半島統一を実現した。(は中国・西安の乾陵内李賢墓の壁画で、唐高官が新羅の使節(右端鳥王冠を付けた人物)と会見の図)。

 この間、新羅668年の高句麗滅亡に相前後して倭国に使節を送ってくると、倭国も遣新羅使を派遣し、両国は急速に接近してゆく。以降天武・持統朝(672-697)にかけては新羅使が連年のように来朝し、日本からも遣新羅使が頻繁に派遣された。特に唐との通交が途絶える天武・持統朝には、倭国にとって新羅との関係が、政治的にも文化的にも極めて重要な意味を持ったのである

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