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2012年8月 3日 (金)

倭国の興亡135: 白村江敗戦の因と外征兵達

 白村江の戦いでは、百戦錬磨の唐軍が待ち構える中に、経験不足で、明確な作戦がなく統制も十分でない倭軍が討ちかかっても勝てるものではなかった。
 だが、真の敗因は他にあると、森 公章(東洋大教授)氏は言っている。まず、倭国の戦略構想は新羅と戦うという意識が強かったこと。進発の際も「御船西征(ニシユキテ)」とあり、半島、新羅を意識した「西征」の語があり、倭国には唐と戦うという厳しい現実認識が希薄だったといわれる。

 倭国の百済救援は、中大兄のもとで強行されたが、有史以来、せいぜい千人規模の派兵はあったが、今回のように4万に近い規模の軍隊派遣はなかった。倭国には万人規模の軍隊を総合的な戦略に基づいて機動させる実体験がなかったのである。661年9月5千人、663年3月2万7千人、663年8月万余と3回にわたって、夫々個別の戦局を追いかけた小出しの出兵になっており、全体的軍略が欠如していた。
135  又、劉仁軌伝に倭国の軍船を「舟」と書いているように、唐から見れば「小舟」に過ぎない貧弱な兵備だった。因みに唐の戦艦は図の如くであり、軍備の面では大きな較差があった。

 戦法・戦略。軍備面の相違に加え、倭軍には決定的な問題点があった。倭国軍は前・中・後将軍による軍隊引率がなされたが、これは渡海の順序を示したにすぎず、全体の統括指揮官がいなかった
 倭国の軍事編成は、独自の勢力を持つ地方豪族が集めた兵を主力とする国造軍を、将軍に起用された中央豪族が引率し、かつ中央豪族が独自に持つ兵力と並立的で、指揮系統が統一されていない
 要すれば、中央集権的律令国家が未確立という国家段階の遅れが災いしているのである。白村江の敗戦が、倭国の中央集権的律令国家構築の必要性を痛感する場になったのである。
 尚、全国から徴兵された兵士は沢山の戦死者を出したが、唐の捕虜となった兵士も少なくなかった。大伴部博麻(筑後国)が690年20年ぶりに、錦部刀良(讃岐国)・壬生五百足(陸奥国)・許勢部形見(筑後国)らは707年遣唐使の粟田真人と遇って40年ぶりにようやく帰国した。

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